霧の布きたる夜。
 
 
 
「夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。
霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりしわが妻なり。
思わず跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)のあるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。
男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入り以前に互いに深くこころを通わせたりと聞きし男なり」
(「遠野物語」柳田国男著:岩波文庫版:63頁)
 
 
 
■ 読みやすくするために、引用時改行を加えた。
 ここでは柳田マジックともいえるいくつかの名描写をみることができる。
「行く道も浪の打つ渚なり」
 津波からほぼ一年後。初夏の重くやや湿った霧にかすむ夜。
 その夜道である。