黙ることについて。
■ 陳腐な題だが、ま、そこは流れで。
揺れてから一日二日経って、私はカメラを片付けることにした。
最中のことは撮らないと決めたのである。それは私の仕事ではないと。
こう自分に確認をしないと、例えば坂道を昇り降りする黒い洪水のような勤め人たちの影をどうしても撮りたくなる。空っぽになったスーパーの棚や、そうではないものたち。 そこになんらかの意味づけをしてその時の流れに乗りたくもなる。
無事ならば、今なにかできないだろうか。
その背後には、いわく言いがたい俗な気分も潜んでいて、例えば君、節電を呼びかけるコピーやポスターなどは今まで何度もつくった。
■ 黙るべきときには黙らねばならない。
初老近くなったゲーリー・クーパーがモノクロの画面で、たった独りの保安官の役を演じた映画がある。
大根と呼ばれたクーパーだが、ゆっくりと手を開いたり閉じたり、それだけで茫洋とした表情の背後の緊張が表現されてもいた。
そんなことを思い出している。