菊池寛はその資格に乏しい。
■ 同じ頃、芥川はこんなことを書いている。
「戒厳令の敷かれた夜、僕は巻き煙草を銜えたまま、菊池と雑談を交換していた。尤も雑談とは云うものの、地震以外の話が出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○(註:○が8つ続く)さうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、『嘘だよ、君』と一喝した。僕は勿論さう云われて見れば、「ぢゃ嘘だろう」と云う外はなかった。しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○はボルシェヴイツキの手先だそうだと云った。
菊池は今度は眉も挙げると、『嘘さ、君、そんなことは』と叱りつけた。僕は『へええ、それも嘘か』と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した」
■ ここからが愁眉である。
「再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ういふものはボルシェヴイツキと○○○○(註:不逞センジン。原文では漢字))の陰謀の存在を信ずるものである。もし万が一信じられぬ場合には、少なくとも信じてゑるらしい顔つきを装わねばならぬものである。
けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池のために惜しまざるを得ない」
(中央公論:大正12年10月号)