ヴェルマ。
■ セントラル街には、黒人だけが住んでいるのではなかった。白人もまだ住んでいた。私は椅子が三つしかない理髪店から出てきたところだった。職業紹介所からまわされたデォミトリオス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった。小さな事件だったが、その細君が良人を連れ戻してきてくれたら、お礼をするといったのだ。
男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一文も金をもらえなかった。
その日は、三月の終わりの暖かい日だった。
(「さらば愛しき女よ」レイモンド・チャンドラー著 清水俊二訳 早川書房 5頁)
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■ 御存知、チャンドラーの長編、代表作の書き出しである。
「全編に溢れるリリシズムとスリルと非情な眼」と、裏表紙には書いてある。
今読むと、些か甘い処もあるのだけれども、ひとを「酔わせる」という点では、チャンドラーにかなうハードボイルド作家はいないのではないかと個人的には思っている。
フィリップ・マーロウという魅力的な主人公を設定したこと。
当時のロスアンジェルスの風景を、見事なくらい切り取ったこと。
黄色く変色した文庫本をぱらぱらめくり酒を嘗めていたのであるが、ニコルソンの「チャイナ・タウン」という映画を思い出した。
確か、映画の宣伝に
「その頃、そうした男はそう珍しくなかった。まだ残っていた」
などという台詞が字幕に流れていたような記憶がある。
■ いい小説の書き出しには味がある。
これから何が始まるのか、その空気が数行の中に含まれている。
晴れているのか曇るのか、曇ってはいてもその密度はどうなのか、一杯目の酒のように、無愛想にひとを試しているのだ。
「緑色の坂の道」vol.1578
95年3月