十一 冴
■ 昼過ぎに起きた。
前に勤めていた事務所をやめてから、ほとんど根無し草のようになっている。決まった時間に起きなくても誰も咎める者はいない。
とは言うものの、だ。
私は幾ばくかの後ろめたさを感じながらコーヒーを沸かした。シャワーを浴び髭を剃る。綿のパンツに半袖のシャツを着た。
習慣的にパソコンの電源を入れ、壁紙をクレーの絵に変えた。「この星は謙遜を知っている」というクレー晩年の作である。実物の色合いをみたことがないので微妙なところがわからない。もっと鮮やかな蒼色に黒で線が描かれているのかも知れない。
ハンガーにかかっている上着の胸ポケットから紙片を取り出す。奥山が渡したものだ。その局番は、高速湾岸線を降りて暫くいった辺り、千葉県との境のもののようだった。
平日のこの時間ではいないかも知れないな。
私は相手が女であることを決めてかかっている。
五回ベルが鳴って、留守番電話が返事をした。やはり女性の声だ。自らの名前は名乗らない。都会暮らしが長いのだろう。
私は暫く戸惑ってから名乗った。奥山から電話するよう言われたことを告げ、自室と事務所の電話番号を教えた。宜しかったら掛けてきてください、と電話を切る。
二時間ほどぼんやりした。事務所にゆく気もしない。薄いコーヒーを何杯も飲み、仕事用の雑誌をぱらぱらと捲った。
思いついた言葉をパソコンに入れてゆく。簡単なメモのようだ。断片的な言葉のかけらのようなものが、ある時一本の線になる。時間を置いて意味が変わることもあるし、当初面白いと思われたものが色褪せることもある。
窓を開けると空は曇っていた。隣の部屋のひとが乾燥機を廻している。東京はまだ梅雨が明けていなかった。
電話が鳴った。一度短く鳴ってはすぐに切れた。
五分程経ち、もう一度ベルが鳴る。受話器を掴み、私は名乗る。
「電話が入っていたものですから。奥山さんがどうかしたのですか」
明晰な声だ。
「彼は撃たれました」
電話の奥で息を飲む気配がする。
「それで、容態は」
「死にはしないが良い訳でもない。私は奥山さんにあなたに連絡をするよう頼まれました。失礼ですがあなたの名前は」
一瞬の間が空いた。どれくらいの間だったのだろう。私は左耳が痛くなっていることに気付いた。
「葵です」
「え」
「今晩七時、芝浦のシーメンズ・バーにきてください」
そう言うと電話が切れた。