■ 走羽が最後に根を張ろうとした街がこの上海なのだろうか。
「当時の上海は死んだような街でした。しかし集合住宅での暮らしは北京などとはまた違っていて、余所者には住み易いのです」
 私は通り過ぎてきた上海の下町を思い出していた。
 路地には粗末な縁台が出され、それを囲んで皆食事をしている。丼飯を抱え、歩きながら喰っている姿も何度かみかけた。井戸や水道の廻りにしゃがみ込んで洗い物をしている女達もいた。
 その光景には不思議な懐かしさがあった。私たちもまたそのような暮らしをしていたのだという記憶が残っている。
 
 日本が豊かになったなどと言っても、たかだかこの三十数年ばかりのものでしかない。その豊かさには厚みがなく、幾つもの無理によってかろうじて支えられている。広告の仕事を続けていれば、そんなことの虚しさが簡単に透けてみえるようになる。どこが豊かなんだ、と思い始めることによって、私には意味あるものがほとんど書けなくなる時期が二年ほどあった。今もそうなのかも知れない。
「今、どれくらいの若いものがいるんだ」
「直接面倒をみているのは五十人ばかりです。後は女達ですが」
 走羽はグラスの氷を揺らしてから口をつけた。
 
 走羽の姿には不思議な余裕のようなものがあった。〈余所者〉と自らを規定し、裏の世界に棲むこの男は何をみてきたというのだろう。
 その時無線機が鳴った。見張りの者から吉川が戻ったという知らせが入る。走羽は駐車場に降りてゆこうとする。私は続かなかった。明日落ち合う時間を決め、もう一杯酒をつくった。