四三 鶏頭
■ タクシーを降りすこし歩いた。
黄浦江の脇にある公園のベンチに座る。
植え込みの処に赤い花が並んでいる。遠くから眺めると、色をそこに置いたようにみえる。鶏頭だ。
「父と何を話したの」
葉子が尋ねる。
「いや、たいしたことじゃない」
葉子は自分の父が工作員だったことを知っているのだろうか。
私は割り切れない気分が澱のように溜まっているのに気付いている。
「お母さんはどうしている」
私は葉子に聞いてみた。
「母は藤沢にいるわ。何度か上海にもきたけれど、馴染めないといってすぐに戻るのよ」
葉子の母はまだ四十代の筈だった。七○年の万国博覧会の頃、葉子の父と知り合い結婚した。何時だったか葉子に聞いたことがある。
葉子の母は学生運動に関わっていたのかも知れない。
吉川の時と同じように助けられ、それが恋愛感情に移行したのだろうか。
あの時代の熱気のようなものを私はうっすらと覚えている。
各地で中国物産展が開かれ、赤い星と毛沢東の写真を飾った会場では人民帽を被った知識人と称される人たちが誇らしげに説明をしていた。
熱気は単に政治的なものだけではなく、その時代の空気そのものを規定した。
梅機関に属していたという葉子の祖父は、汪兆銘を監視する主治医のような任務についていたのだろう。軍医であり憲兵であることはこの場合都合が良い。
汪兆銘は戦時中名古屋で客死したと言われている。
かつて国民党左派と目された汪兆銘を、あの時期に担ぎ出した日本の政策は一面で的確だったと言える。しかし、蒋介石の独裁傾向に拮抗する汪兆銘自身の姿勢を日本は傀儡としてだけ利用した。
私は晃子が送ってきたファイルの内容を思い出していた。
二度目に送られてきたそれには、中国とアヘンに関しての歴史的な経過が端的に纏められていた。葉子の父が話したことと大筋において符合している。