■ 日本の中国に対する侵略は一九二○年代の終わりから始まっている。
 一九二七年、日本では金融恐慌が起こり国内は失業者で溢れる。その五月、日本軍は山東に居留民保護を名目として兵を送り、中国国民革命に対峙した。
 更に六月から七月にかけて、「東方会議」と呼ばれる外務省・軍部高官を集めた対中政策の基本政策が定められた。ここでは後に「華北分離工作」と名付けられた満州国を中心とする日本の権益、鉄道施設権の獲得などの大要が定められた。
 二八年、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始し中国共産党と対峙すると、日本は第二次山東出兵を行う。さらに当初は親日派であった東北の軍閥、張作霖を暗殺する。
 
 この一九二八年という年は、日本国内においても歴史的な変曲点であった。共産党員の大弾圧が開始され、治安維持法が天皇の名において緊急勅令で改正された。これにより、自由主義思想までもが極刑で取り締まることが可能となる。
 一九三一年九月、関東軍は満鉄線を破壊し、これを中国軍のしわざとして一斉に中国軍を攻撃、十五年戦争の火蓋を切った。〈満州事変〉の勃発である。
 翌三二年、上海に侵攻、その隙に「満州国」傀儡政権を誕生させる。
 日本は満州国を国家総力戦体制のための資源供給、重化学工業、さらに対ソ線の前線基地として位置づける。
 産業開発五カ年計画、北辺振興計画、日本人農業移民政策は満州国の三大政策であった。
 中国では次第に反日運動が広がる。反満抗日運動の展開である。