■ それから二週間程、何事もなく過ごした。
 途中、近くの事務所の社長から車を譲ると言われ、試乗することになった。彼は官能的な映像をつくる、ダブルのブレザーがそう気障にはみえない四十代の男で、何台かの車を持っている。
 私の仕事は広告の文案、コピーを考えることで、今の事務所に移ってから五年が経つ。彼からはこのところしばしば仕事の依頼があった。事務所を通すこともあり、そうでないこともあった。広告のコピーとはいっても、それだけが独立している訳ではなく、デザインや写真の領域との区別は曖昧である。事務所の若い者に指示するより自分でやった方が早いこともあるが、今の事務所の規模では、基本的に一人で済ませることも多かった。そうでなくては儲けにならないのである。
 
 彼の車の中に、小豆色に塗られたアルファのGTVがあって、背中の丸みが昔憧れたベレットに似ている。地下の駐車場で、彼の秘書だという光り物を幾つも身につけた若い女から鍵を受け取ると、私はエンジンをかけた。すこしバラつくものの、ウェーバーのポンプはカチカチ音をさせ、これなら一台で済ませることもできるかと薄い期待をした。
 ダウン・ドラフトの吸気音が響いている。通りを抜け、深夜の首都高速を一周する。右の後ろがすこし抜けているようだ。シンクロもセカンドが緩いだけで鳴る事はなかった。銀座裏の橋をくぐり、産業道路の上で国産のRに抜かれた。
 
 雨が降り始めた。回転式のレバーを廻し、窓を閉めた。
 室内に甘い匂いが漂っている。
 生きたものの匂いだ。
 芝で高速を降り、まだ明るいタワーの下で後ろを捜してみた。
 プラス2のシートの下、背もたれの背後に、むき出しの薔薇の花束があった。緑色のリボンで結ばれ、ダージリンのような色をしている。小さなカードが挟まっていた。花の息か、次第に窓が曇ってくる。