顔なき市民。
■ カポーティとヘミングウェイを古本で買ってきた。
どうも、新しいものでなくていいという気がしている。
だがその前に、岩波文庫の「マッカーシズム」を読み耽ったりして、晩秋の壊れかけたソファと天井であった。
■ なにもしなくていいのなら、なにもしないでいる。
最近、という訳でもないが、ネットの世界ではプロとアマの境界が曖昧であると言われて久しい。
それで対価を得ているかどうか、という即物的な話もあるが、つまりそれは、皆が顔のない「市民」になってしまったからではないかという気がする。
例えばブロガーという呼び方があるが、なんのことはない、パソ通時代の草の根BBSが無数に増殖した状態とも言え、使う道具はともかく、やっていることは本質的に変わりがない。BBSの代わりに、無数の小惑星が繋がっている。
ただ10数年前のパソ通の時代には、ネットというものは、ほぼマニア・一部の人間だけの自虐と裏腹の特権的な楽しみや、仕事のツールであった。
原稿のやりとりを行うに、名刺に大手プロバイダのIDを書いたりした。
98の画面はただ黒色で、コンフィグの書き方次第でメモリの箱庭は構築される。
■ 今まで社会の背後に隠れていたものが、インフラとして表通りに出てくる。
そこには功罪があり、発達の過程のようなものがあり、そこからまた分岐する。
例えばブログバブルは一山を超えたが、かつてのオフ会のように、実際に会ったり酒を嘗めたりする動きも出始める。
そこで、文章と書いている本人とのギャップに驚き、こんな風に仮想しているのだとPCの前にいる時間を想像したりもする。
ネットは原則として匿名である。
ハンドルネームというバーチャルな人格を作ることもあるが、現実には実生活の一断面を開示しているに過ぎない。
やる気になれば、いくつもの人格を想定し、切り替えて遊ぶことすらできる。
古くはパソ通の時代にも、複数台のPCでそれを行っていたひとがいた。
ここから、「統合と拡散」などという心理学の概念に流れていってもいいのだが、つまりは一個人の発達や退行の過程の物語が、そのまま社会の表舞台に滲んでいる側面も否定しがたく思う。