I wonder as I wonder.
 
 
 
■ 漠然とするときに思い出すことは、故郷のランドスケープではない。
 ゆるい下腹でも、離れていったときの横顔でもなく、どうして私はここにいるのだろうというような、ある種とりとめのない感情である。
 
 
 
■ これをやらなければ次にゆけない、と思いながら、十二月の仕事場で、一日中WSの画面に向かっていたことが何度かあった。
 次というのがなんなのか、自分にしか分からないのだが、例えば作品というのはそのようにしてできる。
 古くは読売から業務委託を受け、新年よりyominet の文芸が始まろうというとき。
 HTMLをこつこつと書いて、確か正月はなかったような覚えがある。
 タグは全てエディターで書いた。
 オーサリングソフトが開発されていないからである。
 大崎に遅くまでやっているスーパーがあり、そこで大分干からびた御節を買った。
 都会の深夜スーパーというのは独特の風情がある。
 そして、言いにくいことだが、確かに土地柄もあるようだった。
 
 
 
■ そんなことを何度か繰り返している。
 写真家であれデザイナであれ、ものを書く立場の人間であれ、つまり「屋」ではなく、「家」が後につく立場のひとは、半ば誰にともなく内側に篭る。
 作家の内側というのは、外側に繋がっているものだが、それを旨く翻訳してゆく作業があって、半分はジャーナリスティックな感覚が必要にもなってゆく。
 眼をつぶって没頭しているものの、片方だけ薄目を開けている、というような按配だろうか。
 そういう相方はすこし困るものだが、さておき。
 まだコートを着るほどでもない11月の夜、都心の隠れたようなホテルのバーで、一杯6000円などのビンテージ・ワインを傾けている方の端で、そう高くもないラムを嘗める。
 川崎の外れに「夜光」という土地があるのだが、産業道路沿いに定食屋というか、韓国の店があって、そこで温い酒を一本嘗めているのと、漠然の質という意味ではそう変わりがないようにも思えている。