秋の肩口。
 
 
 
■ ジャケットを羽織るようになった。
 といっても、私のそれはゴアテックスの黒いフィールド・コートである。
 ここ二年ほど、そればかりを着ている。
 余程のことがない限り、ホテルのロビーなどにもそれを着てゆく。
 かつてはハリス・ツィードの上着を襟を半分立てたりして羽織っていたものだが、スラックスが面倒になったので皮底の靴とともに仕舞いこまれていた。
 ネクタイをしなくていいというのは、さて半分は堅気ではない。
 
 
 
■ ネット時代になって、ジャーナリストが個人のサイトを持つようになった。
 多くは、レンタルのブログである。手軽だからであるが、注意深く規約を読むと、その著作権や使用権などは母家にそのまま移行することも多い。
 出会い系サイトと同じような仕組みなのだが、規約は誰も読まないところに小さく置いてある。
 民法90条に反するから無効、という考え方もあるが、ところが争うまでにかなりの時間と経費を要する。
 そうしたリスクを侵してまで、手軽だからということで一気に浸透したのだろうか。というよりも、著作権などに関する意識が乏しいのかも知れない。リスクは未だ意識されているとは思えないでいた。
 ブログの持つ利便性は多々ある。が、プロの眼からするとシステム不在・デザイン不在ともいえ、感心してばかりもいられない。どんなものもそうだが、功罪があるのだ。
 一時、アクセス数を誇るサイトも増えた。が、一皮向いてみるとその時その時の時事ネタを巧妙にとりあげ、あちこちの軒先にTBを勝手に打つことで成り立ってもいた。
 戯画化されたところでは、自作自演もくりひろげられている。
 
 
 
■ それはともかく。
 例えばジャーナリストだから、モノカキだからといって、組織を離れた個人になると、常に質の高いものを書いているという訳ではなさそうである。
 ほとんど取材もせず、ネットから拾ってきた情報を加工して論評する。
 畢竟、内容は似たり寄ったりになるのだが、通して眺めていると、その個人の立居地というのが透けて見えてくることもあった。
 あるひとはマーケティングと称して世の中全部を語り始め、あるひとはITの技術革新に絶対の信頼を置く。
 私も広告屋なので、マーケティングの基礎理論は学ぶ。意識する。
 とはいえ、それで全てが語られると思ったら大間違いで、悪しき80年代バブルの遺産と言うべき側面もあることを白けた気分で思い出してもいる。仕事の上では、それを承知で一定の単語なり概念を使っている場合もない訳ではない。これはITの新技術も同じであろう。
 
 話を一部ジャーナリストとその周辺のブログに戻す。
 ありていに言えば、仮にその社の肩書きなどがなく、単独でそこに文章が投げ出されていれば、床屋談義そのままのものであるところも少なくはないように私には思えている。
 床屋談義に参加することである種、コミュニティが成立する。それは非常に脆く、薄いものではあるのだけれども。
 
 世の中がネット時代になって久しい。
 だがネットというものは、あくまで個をさらしてしまうメディアではないかという認識を私は深めつつある。
 社の看板を取ってしまったら、何ほども残らない。記者という肩書きを外すと、どういったものであるかが不分明である。
 個としての取材は、業務以外には簡単にすることもできない。その苦労をしているのがフリーの立場の方々であるが。
 成程、世に言う大組織のジャーナリストというのは、個になるとこの程度の認識でいるのか。それで成り立っている世界なのか。そんなこともないのだが。
 というようなことが反射的に透けて見えるところに、誰しもがブログを持てるネット大衆化時代の利点があるのかとも思っている。