秋の肩口 2.
■ 非常に誤解を招きやすい緑坂である。
ま、いっか、と思いながら続ける。
例えばこのような一文があったとする。
「このブログは、個人の責任において情報発信しています。
所属する会社の見解、方針とはまったく関係ありません」
そう断ってあれば、なにか舌禍があった場合でも逃れられるということなのだろうが、世の中はそう甘くはない。ただ大目に見られているだけのことではなかろうか。
これは「私人として参拝した」と言っているようなものなのだが、社会的な属性というのはトータルなもので、ここからはわたくし、ここからは業務、という風に明白に分けられるようなものではないのが実際である。
かつての侍代議士のように「下半身は私人であります」とか答弁し、笑ってくれる社会背景ならば良かったのだけれども。
■ ある種のブログは、今の社会における階級上昇のひとつの手段として機能していた部分があると思っている。
階級上昇とは、不安定な雇用時代における転職のひとつのツールを意味する。
端的に言えば宣伝塔である。
一部で話題になったブログから各種講演会に参加し、次にどうしても本を出し、その本を名刺代わりに次のステージを目指してゆく。
ほぼこれは、インデペンデントなクリエイター、写真家や物書きの歩いてきた道と似ているのだが、それがより手軽なネット、更に言えばレンタルブログに場を移行したに過ぎないともいえた。
■ 決してそれは悪いことではない、と私は思っている。
思ってもいるが、どちらも手に入れることは難しかろう。という気分も根強くある。
どちら、とは何を指すのか。それは読者の方々が想像してください。
今私は、かつて開高健さんが常宿していたという部屋を窓越しに眺めている。庭の見える二階の角部屋である。
個人の才覚でこの世の中を泳いでゆくということは、結構な綱渡りであろう。
開高さんの定期的な鬱と、その後のご家族の消息などを聞き及ぶにつれ、あの釣りへの没頭や食道楽などの戯れは、懸命に内面のバランスを取っていた所以なのだと実感する。
一市民が社会を批評するのも結構。
匿名あるいは実名で、夜半、政治や経済の出来事を語るのも、単身赴任の知的大衆には相応しい現代的趣味である。
けれども、それを続けていったある日、眼前に「ルビコン河」のようなものが黒々と横たわってることに気がつく。
渡るべきか、戻るべきか。今なら間に合う。
果たしてそうだろうか。