野火。
 
 
 
■ 週末、大岡昇平氏の「野火」(新潮文庫版)を再読する。
 敗北が決定的になったフィリピン戦線での「人肉食い」を主軸とした小説であり、戦後戦争文学のひとつの金字塔であると評されている。
 圧倒的で抑制の効いた描写。神とはなんであるか。
 解説は、吉田健一氏。
 初出は、昭和27年。手元にあるものは平成7年度で77刷を数えている。
 
 
 
■ 一体に小説というのは読みにくいものである。誰にでも読める小説というものがもしあったとして、実をいうとそれは「文学」ではないという気がしないでもない。
 この小説の解説で吉田氏は次のように触れていた。
 
「彼が知識人であることを指摘するものがあるかも知れない。併し知識人であるということは、現代人であるということであって、人間が知識人であることを強いられるのが現代人というものの定義である」(前掲:181頁)
 
 誰かが、大岡氏の「俘虜記」だったかに触れ、「あの戦争という愚かな集団的狂信の中において、これだけの冷静な分析をしていた男がいたという事実に驚いた」というようなことを書かれていた。
 私は大岡さんの全集を読んだことがないので、これ以上のことは書けない。
 
 
 
■ やや長いが引用させていただく。
 
「私が静かに銃をさし上げるのが見える。菊の紋章が十時で消された銃を下から支えるのは、美しい私の左手である。私の肉体の中で、私が一番自負している部分である」(前掲:174頁)
 
 一旦、軍事教練に出された三八歩兵銃はその遊底部分にある菊印にバッテンが加えられた。銃と人間の不足から、それらがもう一度回収され前線に送られる。主人公はそのようにして徴収された平凡な中年男である。
 今の時代、「菊の紋章」をバッテンで消すなどという表現が、たとえそれが小説の中の必然であったとしても、果たしてどれだけの作家に可能だろう。
 作中、銃を捨て、銃を拾う。十字架があり菊の紋章がある。
 背後の水脈として大岡さんは象徴主義の手法を小説の中に結実させている。
 
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「これが猿であった。私はそれを予期していた(略)。
 足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が切って棄てられていた。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分変形した物体の累積を、叙述する筆を私は持たない」(前掲:155頁)
 
「後で炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎ取った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐに口に入れた。
 私の肉を私が食べるのは、明らかに私の自由であった」(前掲:159頁)
 
「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である」(前掲:165頁)
 
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■ 暗闇の中で、山の稜線にちらちらと野火が見える。
 そこは人の住むところであり、ある種観念の、あるいはその反対物の幻のようなものである。
 平凡な主人公は戦後狂人として扱われる。些か長いこのフェイド・アウトが作品の構造を静かで確かなものにしていた。
 文学作品から教訓めいたことを導くのは愚かなことであるが、近代の終焉などというわかったようなことを言うのは、まだ相当に早いという気がする。
 
 
○「青い瓶の話」vol.2411 99年7月26日 初出:読売新聞社 yominet.