九月。
 
 
 
■ 明日のMTGのためDVDを焼きながらこれを書いている。
 薄い頭痛がするので、酒はまだ嘗めていない。
 つまり、97年の「プラネット」という緑坂は、社会の二極分化の果てにくる風景を暗視したものだったのだろうと今は思う。
 ひととひとが繋がる機会が、性と暴力でしかないという傾向は、表現の世界では暫く前から主流に近くなり、例えばヒットしているという劇画には。繰り返し児童虐待の記憶が出てくる。
 これはつげ義春さんがその短編で描いた、生活の底辺にある者達への諧謔に満ちた視線とは異なってもいて、自分を捜すそのスタートラインが、既に虐待の記憶であるという帯のような悲劇に近い。
 ある一定の層へは決してのぼることができないという諦念に満ちた苛立ちは、どこへ向かうのか。
 それを煽る者たちもいる。