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    麻雀放浪記 青春編。
 
 
 
■ 昭和二十年一月一日の、「読売報知」の一面には、御前会議の写真が掲載されていた。
「B29に必中弾」「天皇陛下 最高戦争指導会議に親臨」「一億特攻・戦局進展のこの一年」
 紙面の中ほどには郵政省、「弾丸切手」の広告がある。
「我らの弾丸切手 いま凶敵を撃滅中」
 その裏手、二面をめくると以下のようになっている。
「神風まさに吹かん(八木技術院総裁)異常な決意、科学技術陣」
「美し皇土・断じて護持」「今年の食生活 島田農商相に聴く 手は打つ腹一杯」
 
 
 
■ 神風は吹かず、腹一杯にもならず、八月十五日をむかえる。
 
 もはやお忘れであろう。或いは、ごくありきたりの常識としてしかご存知ない方も多かろうが、試みに東京の舗装道路を、どこといわず掘ってみれば、確実に、ドス黒い焼土がすぐさま現れてくる筈である。
 つい二十年あまり前、東京が見渡す限りの焼野原と化したことがあった。当時、上野の山に立って東を見ると、国際劇場がありありと見えたし、南を見れば都心のビル街の外殻が手にとるように望めた。つまり、その間にはほとんど建物がなかったのだ。
 人々は、地面と同じように丸裸だった。食う物も着る物も、住むところもない。にもかかわらず、ぎらぎらと照りつける太陽の下を、誰彼なしに実によく歩いた(略)。
 毎日、どこかの路上には行き倒れが転がっていた。
 そうして人々は、その姿にもまったく無感動で、石ころを眺めるように通りすぎていった。
 昭和二十年十月――。

(阿佐田哲也著:「麻雀放浪記 青春編」:角川文庫版:5-6頁)
 
 
 
■「麻雀放浪記」は、言うまでもなく、掛け値なしの名作である。
 角川文庫版の解説は、畑正憲さんが書かれている。この解説も、背後にある色々を考えると随分と重い。この重さは、近い世代の作家の方々とも繋がっていて、例えば大藪晴彦さんの膨大な山脈を理解できるかの試金石にもなっている。五木寛之さんの、「青春の門」で描かれなかったある部分とも。
 畑さんは、満州から引き揚げてこられた。向こうの小学校時代の同級生は誰一人生き延びていないという。同胞の手によって処分されたと、せんだってある雑誌のインタビューに答えていた。
 時折、激しい鬱になる。
 阿佐田さんと等しく、畑さんもそのように言われていた。
 自分はなんのために生きているのか。
 
 
 
■ 師走も押しつまったある日、私は本棚の中に手を突っ込み、この文庫をみつけた。新聞を眺めると、三船敏郎さんが亡くなっている。
 暗くなってから外に出ると、携帯電話を頬に当てた若者が自転車で信号無視をしていった。くわえ煙草で歩いてくる若い女とすれ違う。女に緊張感などない。
 何も考えず、坂道を降りる。
 戦局はこの秋に決定した。
 何物も持たないところに戻らざるを得ない時が、そう遠くない明るい午後にやってくるようにも思う。
 はじめてで。
 こわくても。
 
 
 「でも、早くそうして」
 「何?――」
 「わたしを犬か豚のようにって、そういったじゃないの」
 (前掲:60-61頁)
 
▼註・画像は昭和二十二年一月一日の読売新聞一面。そこに文字をコラージュ。
○昔坂
 初出は読売新聞社 yominet 「緑色の坂の道」
 97年12月26日。