五反田ダンディ。
■ 昔、五反田にあった映画館の傍で、男色趣味のひとに声をかけられたことがある。
私も若かったものだから、暫くトイレにいくたびにうんざりした。
上野界隈にはそうした映画館があって、間違えて路地に入るとたいへんなことになった。
カモがジーンズを履いてきたというような、おかしな緊張感が狭い路地裏にみなぎるのである。
■ 都会で暮らしていて、深夜のサウナに泊まったことのない勤め人は少ないと思う。
なんともいえないものだが、完全にチンボツしている全裸の男が仰向けに寝ている姿というのは滅多に見ることができない。
見てどうだということもない。一夜干しみたいなものである。
リー・マービンとリノ・バンチュラが化粧をして煙草を吹かしているような店に何度かいったことがあった。
いつも酒は学割待遇で、時々説教をされるのがたまに疵だった以外には、夜の街とは凄いものであるなという記憶が残る。暫くして、別の線で遊ぶようになってから足が遠のいた。
いわゆる場末の酒場には、前にいろいろあっただろうなという風情の男や女がタムロしている。何をして生計を立てているのか、実際はヒモだったり博打打ちだったりもするのだろう。
昼間からビールを飲んでいる男がタクシーの運転手だったりすることはごく普通で、彼は演歌の歌手のような色男ではあるが、どこか崩れた横顔をしていたりした。腕時計だけが金色である。
■ 博打打ちは負けることに慣れた人種である。
と、書いていたのは山口瞳さんだった。
長いことその意味が分からなかったのだが、この歳になると実感をもって腹に響いてくる。
例えば浴槽でもトイレでもいい、そこの水垢。
そういった風情が躯全体に染み込んできて、なかなか抜けきらない。
あるときそういうものは、全て捨てるなり漂白してゆかねばならないのだが、なんのためかというと、例えば何かを書こうとする場合である。
無頼派作家という言葉があるけれども、彼らは作品をつくるときだけは、生活の向こう側に立っていた。
この水垢のような匂いは、時々自分の躯から立ち上る。
いわゆる、写真家っぽいとかデザイナ臭さというもので、最近はここにIT業界臭さというものが濃厚に加わってくる。
この題目、表題を変えてつづく。