赤い風。
 
 
 
■ 流れで、チャンドラーについて書いたものを再掲する。
 青瓶 2423.
 これは「青い瓶の話」メールマガジンに載せたもの。
 ただし原型は98年、読売新聞社主宰 yominet の文芸が初稿である。
 
 
 
■ 十河さんの影響か、チャンドラーの短編集をぱらぱら捲っていた。
 稲葉明雄さんの訳になる。
 まちがえて探偵になってしまったような、フィリップ・マーロウが登場する。
初期のものではやや若い。
 設定ではどうなっているのか確かめていないが、マーロウという男は結構お坊ちゃまであって、中産階級の育ちのよさがそこかしこに見られる。
 これでは母性本能をくすぐるだろう、というような会話などもあり、女性ファンも多かった。例えばこういう場面。
 
彼女はうつろな眼を私にむけて、蜘蛛の巣を払うような手つきをした。
「そうよ。あの――わたし、急いでいるのよ。だから――」
私は動かなかった。エレベーターの前に立ちはだかっていた。おたがいに睨みあっているうちに、彼女の顔がだんだん紅くなってきた。
「そんな格好で外にでないほうがいい」と私はいった。
「まあ、なんてことを――」
(レイモンド・チャンドラー「赤い風」:稲葉明雄訳:創元推理文庫:111頁)
 
 
■ この女は事件の鍵を握る厄介な御婦人なのだが、初対面の会話がこうなる。
 ワーナー・ブラザーズ風に言えば、ここはケーリー・グラントが仕立ての良いスーツを着て女性を睨みつけている、といった絵であろうか。
 女性が何かうっすらとした目的を持っている時、無意味な言葉を発することはままある。この誘い水のかけ方など、青山辺りで遊んでいた女子大生の熟した方でも、そう旨くはいえない。
 チャンドラーの小説には車が多く登場する。
 デューゼンバークとか、ロールスのシルバー・レース。マーロウ本人が乗っていたのが確かクライスラーだったように記憶している。
 アメリカという国では、乗っている車によってその階層(クラス)が判別されるという風習があった。
 同じエンジン・ボディの組み合わせでも、細部の仕上げによって、これは大都市のインテリ層に評判が良い車。これは黒人、あるいはヒスパニック系が好む車にと明白に区別できた。ボディ・カラーなどもそうである。
 70年代始め、オイルショック辺りまでは、そうした車による一定の判別は比較的容易だったように思う。
 小林章太郎さんがエディターだったころの二玄社、CGのアメ車特集を眺めると、横に立つモデルの肌色でそれが分かるのだ。
 マーロウが活躍する時代では、黒人が車に乗ることはまだできなかった。そうした記述は記憶にない。
 
 
 
■ 久しぶりに読み返したマーロウものは、それが短編ということもあり、粗雑な魅力に溢れ若々しかった。
 特有のワイズ・クラックもそれほどでもない。
 チャンドラーはまちがえて小説家になってしまったような人だった。
 その本質は詩人であり、一歩間違えるとただの感傷に流れるところを、かろうじて踏みとどまっているところに絶妙な味わいがあった。
 チャンドラーに影響を受けた作家は多いが、乾きすぎていたり、女性のあしらいが下手だったり、読むに耐えない下手な警句を連発したり、この世界を後からなぞるのも至難である。
 
「二日酔いの原因はアルコールとは限らない。私の場合は女だったこともある」
「大いなる眠り」の中の一節であるが、今の私はこういうのをソラで言える。
 安いスコッチが半分になってしまった。