廃墟論。
 
 
 
■ 太いなるものが過ぎ行く野分かな (虚子)
 と、こんな俳句を思い出したりしていた。
 いかにも虚子らしい句である。
 空は、今は半月になっている。
 
 
 
■ 比較的長い時間がかかった仕事がひと段落して、後は廻すだけになっている。
 私とその作品についての紹介文を書けという依頼がきて、数日すこし悩んだ。
 なるべくあっさりと、媒体の特性なども考える。
 
 
 
■ クリストファー・ウッドワードの「廃墟論」(青土社:森夏樹訳)をぱらぱらと捲っていた。題名に惹かれて手にとった訳だが、なかなか難解で、精読は難しい。
 原題を「IN RUINS」という。訳者の森氏のあとがきが優れていて、西洋における廃墟というのはつまり「裁きの日」に向かって一直線に向かう過程にある幻視なのだという指摘はその通りである。ただしこれはキリスト教以後の価値観であるが。
 ひるがえって日本はどうかというと、そう簡単なものではない。
 ここで鈴木大拙などの禅や、あるいは茶の本などをごそごそひっぱりだしたくなるのだが、不完全なものに美を見出す心理が私たちにあるのだとすれば、そこまでするのは野暮だということにもなる。