「緑色の坂の道」vol.3551

 
    1958 マイルス 4.
 
 
 
■ 若い頃、額縁を買ってLPのジャケットを入れ、たまにはヒビの入った壁にかけていたことがある。
 額縁はバブルの頃の大井町の、赤いカード屋で買った。
 JAZZの世界では大体、ジャケットのデザインがいいものは演奏もそれなりである。
 独特の色使いがあって、一目見ただけでレーベルが分かるのだ。
 それは何かというと、例えば50年代のNYであったり、西にある都市の坂道を昇ってくるアート・ペッパーであったりした。

「緑色の坂の道」vol.3550

 
    1958 マイルス 3.
 
 
 
■ あのカタカナの使い方は北澤さんでしょうっ。
 と、南国の梟に似た彼女に言われたことがあった。
 痩せれば美人なんだがなあ、と言うと、いいつけますよとかいう。
 どうしてひとがいい話をしている時に、店のおねーちゃんを呼ぶんですか。
 説明しがたい含蓄である。

「緑色の坂の道」vol.3549

 
    1958 マイルス 2.
 
 
 
■ ディヴィスは、コルトレーンの入らないものに限る。
 と書いていたのは英国の作家、キングスレー・エイミスだった。
 私は吉行さんの訳でそれを読んだ。蕎麦やシングルモルトの薀蓄にも似ている。
 マイルスなどと馴れ馴れしく呼ぶことは許さない、などとエイミスは書いていた。
 どこまで本気なのか隙間なのか。
 ま、そこは流れで。
 成熟したなにがしかというのは、曖昧なものなのでアル。

「緑色の坂の道」vol.3548

 
    1958 マイルス。
 
 
 
■ ジャケットは池田万寿夫さんだった。
 58年ごろのマイルスはいくつだったか、簡単に言えばロマンチックな演奏をする。
 車で横浜辺りまで流すには合わないが、パーキングに入れて暖かいお茶を飲んだりする。
 アルミの味が僅かに混ざり、それが普通になっている。

「緑色の坂の道」vol.3547

 
    Today 4.
 
 
 
■ 暫く前、何故かは分からないが、PCを二台ばかり組んでいた。
 最近扶養PCが多い。
 2.8とか2.9とか、見た目の馬力はあるのだが、不思議にOSが粘っている。
 試しに測定をしてみると成程そういうことであるのかと分かったような気にもなる。
 メモリとはマンションの平米に似ていて、旧式であれ広さには敵わないところもあった。つまりは排気量なのである。

「緑色の坂の道」vol.3546

 
    Today 3.
 
 
 
■ 枯れてゆく手前のあざとさが、種田山頭火の俳句である。
 彼は風景を見ても自分のことしかみえていない。
 この甘さは、例えばIT関連に勤める中堅とかその部下の妙齢には受けて、つまりは分かりやすいロマンチックなのである。

「緑色の坂の道」vol.3545

 
    Today 2.
 
 
 
■ ヘイグのピアノは、どちらかというと玄人受けをする。
 玄人とは、バークリーに留学して今はホテルで賛美歌の後ろにいる方ではなく、まあこんなもんでいいだろうかと、最後の水の旨さを知っている遊び人のことを言うのだと思う。
 そんなことどうでもいいじゃないか。
 と、真剣に徹夜してから思ったりもしていた。

「緑色の坂の道」vol.3544

    Today.
 
 
 
■ アル・ヘイグを一日流している。
 ということは、半ば疲れているということで、確かに12月は〆切も会合も重なる。
 あるパーティの会場で、自由に煙草をとってくれと平積みにされている。
 一回貰ってから、もうちょっと欲しいなと戻ったら笑われた。
 いい酒出しているね。
 水はいまひとつだけれども。
 こういう客っていやだなあ。

「緑色の坂の道」vol.3543

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
    ドライベルモット。
 
 
 
■ NYの街角にはいくつものバーがあって、そこには一癖もふた癖もある親父がいるという。
 私は馴染んだことはないが、ヤンキーズの試合ならテレビで見た。
 彼らは雇われている訳ではなく、結構勝手にやっているものだから、その歳まで独身だったりすることもある。パリ解放と等しく、離婚していたのかも知れないが。
 1956年ジョー・ベルは67歳だった。
 ホリーがアフリカ、東アングリアにいたのかも知れないという噂を聞き、ポールを呼び出して作った酒が「ホワイト・エンジェル」である。パーティパンチとは異なる。
 ジンとウォッカだけでつくるのか、それでどうしろというんだ。
 
 
 
■ どうもしない。
 ただ酔えばいいのだという気分の時、マティニに入っているオリーブが邪魔になることが時々ある。
 ジャック・レモン主演の「アパートの鍵貸します」の中で、時間の経過をはかるのに、オリーブを刺してあった楊子を並べる場面があって、つまりはまあ、泥酔ですな。
 今回「ティファニーで朝食を」を再読すると、ところどころに酒と煙草、多くは葉巻だが、が効果的に使われていることに気がついた。
 マティニを三杯飲んで随分と千鳥足になっている場面。マンハッタン。軽くバーボンを注いでいるところ。お祝いにはシャンパンで。
 仮にシャンパンが余ったら、葡萄酒のかわりに肉料理に使うといい。クリスマスにあける、安手のものでは味が出ない。消えてなくなりそうなものほど、無駄があってもいいのだろう。
 
 映画の中で「私」こと売れない小説家ポールは、妙齢本格派の燕のような設定になっている。何で食べているのか、そのリアリティを出そうとしたからだろう。
 ポールを演じたジョージ・ペパードは当時33歳。
「ローマの休日」のグレゴリー・ペック程の背丈と見た目の知的さには欠けるが、笑うといかにもハリウッド伝統の色男として、オードリーのエスコート役には相応しかった。
 彼もアクターズ・スタジオで演技の勉強をしている。ロマンスからハードボイルドまで、演技の幅は広い。
 服装の好みもよかった。
 例えば原作で、ポールがブルックリン近くで地下鉄に乗っているという記述がある。
 就職の面接に出向き、それがはかばかしくなく、また43年というのは第二次大戦の最中であるから、ふらふらしている男には徴兵の声もかかっていたのだ。
 プレスの効いたヘリンボーンなど着れる訳はないのだが、そこは映画の世界であろうか。まずは絵にならなければ仕方がないのだ。
 
 
 
■ ここで緑坂妙齢読者のために薀蓄をすこし。
 マティニとは、いわゆるカクテルの中の定番と言われるもので、「マルチニ」「マティーニ」「マテニ」など、いくつもの発音がある。
 基本はジンとドライベルモット。
 バーテンダーというのは、客の顔をみて作るものであるから、放っておくとジンはその店で何時も使っているものになる。ベルモットも同じだ。
 貴女はそういうことはないと信じているものの、甘いそれが次第にまとわりつくように感じた場合、まずはベルモットの銘柄を変えてもらう。
 どれ、と商品名を口にするのは品がないので、すこし甘くないものなどと言う。
 それで、イタリアのものではない緑色の瓶が出てきたらその店はとりあえずである。
 ジンは何にしますか、などと聴かれても、レディは答えてはいけない。
 まして「ジンの濃縮くれ」などと言ってはいけないのである。

「緑色の坂の道」vol.3539

 
      - BREAKFAST AT TIFFANY'S -
    透明な子。
 
 
 
■ カポーティは1924年に南部の町、ニューオリンズに生まれた。
「サンダーバード号で見た南部」という作中の書名はそんなところから来ているのかも知れないが、NYでは一時ある種の遊び人として浮名を流す。
 本作は、カポーティが交際したこともあるマリリン・モンローをイメージして書かれたものだったという。マリリンも若くして一度目の結婚をしている。
 モンローといえば「バス停留所」などにもあるように、流れ者の気のいい踊り子という役柄がとても似合う。
 昔「鬼怒川マリリン」というストリッパーが日本にもいたという嘘もあるが、そのような伝説や亜流が生まれてもおかしくはない。日劇マリリン。北千住マリリン。
 遺作「荒馬と女」なども、そうした役柄だった。
 それらの個性は、手繰ってゆくとかなりの部分が彼女の生育歴から来ているものだが、ハリウッドやNYというのはアメリカの中でも特別な場所、ある意味でアメリカではないのだという指摘もあって、半ばはその通りかも知れないと私も思う。

 
 
 
■「ティファニーで朝食を」の原作にはこんな場面がある。
 ホリーと作家の卵ポールが南京町、つまりチャイナタウンからブルックリン・ブリッジをぶらぶらと歩き、夜景を眺めながらホリーが言う。
 
 今から何年も何年もたったあと、あの船のどれかがきっとあたし、いいえあたしとあたしと九人のブラジル人の子供を、またこのニューヨークへつれて帰ってくれるとおもうわ(略)あたしニューヨークが大好きなのよ。樹だって通りだって家だって、何ひとつほんとにあたしのものというわけじゃないけど、でもやっぱり、なんとなくニューヨークが自分のもののような気がするわ。だってこの街は、ぴったりわたしの性に合ってるんだもん(前掲:120頁)。
 
 NYが自分のもののような気がする。
 という台詞は、この街の特質を正確にあらわしている。
 夢と希望、それからなんだろうか。
 ふと思い出すと、例えばこの会話は、銀座のデパートの屋上で、浅岡ルリ子が裕次郎に語ってきかせているかのような印象も受ける。昭和30年代初めの日活映画。
 ポールは裕次郎ほどヒーローではないので、脇を固めていた役者が相応しいのかも知れないが、すぐに名前が思い出せない。
 推測であるが、当時の日活の監督も脚本家も、おそらくは本作に眼を通していたに違いない。ホリーという女性の造形は、戦後の一時期のある層や事象と重なっているかのように私には思えている。
 
 
 
■ このとき、ホリーはブラジル人の外交官との結婚を夢見ていた。
 弟が戦死した後、彼女は半分壊れてしまったのだ。
 素肌にレインコートをひっかけたまま、ドラックストアに買い物にいったりもする。
 不安を隠しながら、つとめて明るく話しているときの若い娘の声。
 この結婚は実らないのであるが、ホリーはブラジル人の彼のために自分が処女であればほんとうによかったのにと、ポールに言う。
 そのときは本当にそう思っているのである。