■ 日中戦争当時、日本は国策として中国全土にアヘンを公然と売買していた。
 満州事変以後、日本は内モンゴル政策を採るようになる。
 三九年「蒙古連合自治政府」、通称〈蒙彊政権〉という日本軍の傀儡政権がモンゴルに樹立された。満州国に続く二つ目の傀儡政権である。
 
 蒙彊地帯は、中国屈指のアヘン栽培地であった。
 ここにわが国の首相を総裁とする対中国機関が設けられた。「興亜院」並びに「大東亜省」である。その指導のもと広範なアヘンの製造・販売が画策されたのである。
 上海においては、天津の茂川機関と並んでアヘン密売の特務機関、里見機関が存在した。ここでは児玉や笹川らの「萬和通商」と連携しながら、三九年まで主にイラン製密輸アヘンを販売していた。
 この密輸に関わり、財閥系商社同士の苛烈な競争があったとされている。財閥系商社はこの密輸によって、一年で八千万円の利益を計上した。当時の八千万円は中型航空母艦一隻の建造費に相当する。
 
 太平洋戦争勃発にともない、イランからのアヘン密輸は途絶える。上海のアヘン事情は蒙彊地帯から産出されたものが主流になってゆく。
 すでに興亜院の指揮のもと、アヘン商、〈宏済善堂〉が組織され、支部は中国各地に広がった。里見が副理事となっていた上海の〈宏済善堂〉は、四○年以降中国全土のアヘン供給量の半分からそれ以上を販売した。
 偽造法幣流布の〈杉工作〉と並び、このアヘンの製造・販売はわが国の対中国政策の隠された要とも言えた。