不感帯 7.
 
 
 
■ 伊丹万作の「戦争責任者の問題」のことを考えていくと、遠く近く「転向」という言葉が波の上に顔を出し、また沈んでいくかのようである。
 近代化、モダニズムの系譜としての左翼思想。そうした文脈で捉えることもできるだろうか。
 伊丹が脚本を書いた「無法松の一生」(岩下俊介作)などは色あせぬ普遍的な魅力を湛えている。
 しかし、その他全集に収められたいくつかの文章を眺めていると、映画論などは別にして、その世界観の単純さと才気、ある種の若さに薄っすらと気付いているこちら側もいて、これもまたなんともいえない。
 

 
■ いわゆる「東宝争議」の影響は、戦後の映画全盛期を振り返る際、避けては通れないものだろう。
 戦前と戦後の映画はネガとポジのような関係にあって、戦意高揚の作品を撮っていた手法で、占領期・民主化推進の映画も撮られていったという指摘は、実は表現の他のジャンルにも当て嵌まっていた。デザインや写真の世界もしかりである。
 戦前と戦後は断絶があるかのように見え、水脈は繋がっているのである。
 伊丹万作は終戦時京都にいた。東宝を離れ、日活そして大映に所属していたという事情もある。こうした地理・経済的事情を勘案していかないと「戦争責任者の問題」の一文は、文のうわべだけがひとり歩きをしてしまい、恣意的な引用もしくは利用をされがちになる。
 時には粗い論者に、牽強付会ともいうべき文脈で使われていることもあった。もっとも戦犯や戦犯解除といったような補助線を引いてみると、その論がどこに阿諛しようとしているか、透けたような気になることもあるのだが。
 
 
 
■ 漠然と浮かんでいることは二点あった。
 伊丹万作は不幸にして結核に倒れたけれども、ある意味でその対極に位置するだろう内田吐夢監督のことである。
 何故彼が突然満州に渡り、満州映画協会、甘粕正彦理事長の自死を看取ることになったのか。甘粕の人脈と金脈。そして敗戦後8年半もの長きに渡り、国共内戦が続く中国に残り何をしていたのか、させられたのか。
 そもそも、当時満州に渡るとはどういう意味を持っていたのだろう。
 そして、しぶといと評しても良い復帰後の内田吐夢の作品に通底するもの。
 もうひとつは大岡昇平の「出征」という作品にあった一文のことである。