一世行人 6.
 
 
 
■ ここでは宗教的意義については触れなかった。
 二十何体あるとされる即身仏の系譜についてもである。
 
 
 
■夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし(合の手)
 
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
 
 
 
■「大菩薩峠」で使われていた「間の山節」である。
 遠くでは賑かな音頭、この座敷では死ぬような間の山節。
 これは伊勢のお話だが、桑原武夫さんがかつて指摘したように、日本の古層というのはどこにでもあって、繰り返し顔を覗かせる。土や浪の中から。
 
「それから今日まで、私は何度かミイラのことを考えることがあったが、どうしてもミイラ志望者たちの心の内部にはいって行くことはできなかった。日本には自分の意志で、自分の肉体をミイラ化し、衆生済度のため仏になろうとした人たちが実際にいたのであるが、この人たちの心理と行動を理解することは、凡夫の私には至難なことのようである」(井上靖:「日本の旅」平泉紀行:岩波書店:107頁)
 
 常識的で無難な感想、と言ってしまえばそれまでだが、結局はそこに還らざるを得ないという気もしている。