一世行人 4.
 
 
 
■ 昭和40年のことである。鉄門海上人の遺言状が見つかった。
 同時に鉄門海上人入定の際の様子を記した清海上人の「記録帳」も確認されている。
 遺言状には、高僧のそれのような宗教哲学は一切みられず、実生活上の細々とした指示ばかりが並んでいた。金の貸し借りや寺の運営に関する微細な注意などである。
 内藤さんはこう書いている。 
「清海上人は(略)の住職にまでなり、晩年に引退して(略)で余生を送ったが、念仏講のお婆さんたちに、鉄門海上人のミイラづくりの時に、炭火でいぶす臭いがあまりにもなまなましく、その光景がとても悲惨で痛ましいものだったので、自分は木食行までしたけれど即身仏になるのをあきらめて引退したのだと語っていたという」(前掲:171頁)
 
 
 
■ ここで目をひくのは、行人寺の住職になった清海上人が引退した、というところである。つまり、雇われていたということで、鉄門海上人が一旦は埋葬された墓も山内衆の持ち物だった。
 鉄門海上人の入定が文政12(1829)年。
 湯殿山即身仏の例に倣い、三年三ヵ月後に掘り起こされたとすれば、鉄門海上人のミイラづくりは天保4(1833)年ということになる。
 天保4年と言えば一大凶作の年であった。
 
 
 
■「そげだ料理をこの目で見たんでねえどもや。山の小屋からえれえ臭いがするもんだ。行ってみたば、仏の形に縛られたのが、宙吊りにされて燻されとったもんだけ」(森敦「月山」文春文庫版:62頁)