一世行人 3.
■ 内藤正敏さんは優れた写真家でもあって、同書では即身仏の緻密な写真が何体も掲載されている。東北地方の写真といえばやはりこの方だろう。
本書の場合、大型カメラとストロボが特徴だった。大胆な構図。
1963(昭和38)年、25歳のときに湯殿山系の寺に篭り、即身仏と対面したのがその始めだったと内藤さんは書かれている。「月山」の森敦さんが一冬を過ごした寺と同一のところである。
当時は訪れるひともなく、毎日山菜ばかりが食卓にのぼり閉口したと記されているが、「月山」はまだ世に出ていない。
63年といえば60年安保闘争から暫く。
時代の趨勢ということもあったのだろうが、知識層の青年が遠い山寺に篭ることのできる時代だったのだな、という感慨を私は薄く抱いた。
また同書の、湯殿山系即身仏信仰の背景には重税と天明の大飢饉がある、との指摘は、やや飛躍はあるものの歴史の視点として説得力があった。
白土三平の「カムイ伝」などを思い出したものである。
■ 内藤さんの同書では、鉄門海上人の伝承には異説ある。
清龍寺川の見回り人足をしていた鉄は、堤防が決壊しかけているところを見つけた。さっそく治水係の武士に注進したところ、侍たちは昼間から酒をくらっている。そこで鉄と詰りあいになったが、武士はいきなり抜刀して斬りつけてきた。鉄はトビ口で防戦したが二人の武士を殺してしまう。
この辺り、内田吐夢監督の「血槍富士」(1955)のラスト・シーンに出てくる侍ばりの理不尽さである。だまれ下郎というところか。
鉄はそのまま寺に駆け込み、住職に許されて鉄門海という名の一世行人となっていく。その後、加茂坂改修工事のような社会事業に挑みながら、荒行に身を投じていったという。
■ ちょうど、歌舞伎の講談が生成されていく過程を眺めているかのようである。物語はこんな風につくられるのだ。
鉄門海は非常に人気があり、庄内いたるところに頌徳碑が建っているという。足跡は関東にまで及び、行人寺を六つ建立した。それだけ寄進があったということである。
ただその最後は、土中入定ではなかった。
鉄門海上人と親しかった清海という人物の手記によれば、ふとしたことによる風邪で急死。遺体を海岸へ運び、海水につけて洗った後、寺の天井につるして乾燥したというのが本当のことだとされている。
清海は鉄門海の弟子、当該寺の住職をしていた行人だった。