砂の岬 3.
 
 
 
■ 読売YOMINET時代、というと99年辺りだと思うが「青い瓶の話」に私はこんなことを書いている。
 長いが再掲してみる。
 
 
    丘のホテルの 2.
 
 
 
■ 色川さんが「フーテンの寅」さんのことを書かれていた。
 映画の始まりに歌が流れる。
「エライ兄貴になりたくてエ」
 と、いうところで必ず泣いてしまう。劇が始まると、涙、涙、滂沱と流れる涙の奥からスクリーンを眺める格好になる、という。
 
 
 
■ ドキリとした指摘があった。引用する。
 
「あるとき私はふっと妙なことに気持がひっかかった。車寅二郎という名前。
江戸時代に、車弾左衛門といったかな、非人頭が居て、車という名前がそれを連想させたのだ。もとよりその種の差別が何の謂れもない、撲滅すべきものであることは承知しているが(略)」
(色川武大「なつかしい芸人たち」新潮文庫:209頁)
 
 車弾左衛門のことは、白土三平さんの「カムイ伝」で読んだ記憶がある。江戸の町を裏側から仕切り、結構な勢力を誇っていたという。
 結局、こういったことが気になってしまうというのが、色川さんらしい感性のありようだと私は感じる。「麻雀放浪記」を始めとする膨大な悪漢小説も、単に筋の面白さだけで支持されてきた訳ではなさそうだ。
 ここで連想されるのが中里介山の「大菩薩峠」である。
「龍神の巻」で出てくる「お玉」は非人の生まれ、たぐい希な美貌を誇る。後に進歩的な領主(正確には忘れた)の側近になってゆく訳だが、そのことが原因でその殿様も座を追われる。
 そんなことを思い出しながら、意識・言語化された近代的自我とはまた別の、感性の底流のようなものがあるのかという気がしていた。
 
 
 
■ 美空ひばりが小林旭と離婚した際、その記者会見に当時の山口組三代目田岡組長の姿があった(敬称略)。その翌年辺りから、ひばりはマスコミから随分と叩かれる。身内の者の不祥事を理由にNHKの紅白を降ろされ、地方公演では会場を貸してもらえない。
「お粥をすすっても生きてゆきます」
 という台詞が揶揄の言葉として人の口に立った。
 昭和40年頃のことだが、東京オリンピックが終わった後の日本は異界の世界の助力を表向きは必要としなくなってきたのである。
 確か、「フーテンの寅」一作目か二作目で、寅さんが千葉の浦安あたりの船宿に流れたような記憶がある。
 山本周五郎の「青べか物語」の地ではないか。
 私はずっとそんな風に記憶していた。
 あの頃の寅さんはまだ若く、頬のあたりに翳があった。
 浅丘ルリ子さん演ずるストリッパーの「リリー」が出てくるのは何作目だったろうか。
 
「結構毛だらけ、猫灰だらけ。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ、見下げて掘らせる井戸屋の後家さん。
 憎まれっ子世にはばかる、日光結構東照宮、産んで死んだが三島のおせん。おせんばかりが女じゃないよ、四ッ谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋なねえちゃん立ち小便」