床を拭く袖。
 
 
 
■ 尾崎一雄さんの「退職の願い」という作品がいい。
 尾崎さんと書いても、多分若い読者には誰のことやら分からないかも知れない。
 私もそう詳しくはないのだが、いわゆる私小説作家の代表と評されている方である。
 破滅的なそれではなく、どこかでバランスをとろうとする理想主義的志向。
 志賀直哉に相当影響を受けた方だと言えば、その作風も想像できるだろうか。
 
 
 
■ 病苦や貧困や再婚や、様々なことを潜り抜けてきた頃合、そろそろいいのかなという気分の時に書かれたものが前述「退職の願い」だった。
 あらすじはどうということもない。
 新聞社に勤めるややモダンでおきゃんな娘さんがいて、一緒に食事をしたりしなかったり、というそれだけのものだが、例えば小津監督の映画の一齣のような絵が浮かぶ訳である。
 東京の山の手言葉。
 実際、そうした口ぶりだったとすれば、今なら少し違和感が残るのだけれども、作品の中ではそれほど破綻していない。
 
 
 
■ ゆっくりと隠居しようかな、という心積もり。
 まだいけるのに、やめておこうとするなにものか。
 なんとしてものしあがろうとするイナカモンには縁遠い世界なのだが、ある瞬間、意気地なしと罵られることもあっただろうとも思っている。