こころかすめし白川の関。
■ 東北地方に関する本を捲っていると、冒頭にこういう記述があった。
「『白河以北一山百文』という言葉がある。
宮城県の地元新聞『河北新報』の社名の由来になったものである。暫く使われなかったが、戊辰戦争から二回り目の戊辰の年、昭和63年(1988)には、息をふきかえしたようによく使われた。
これは、白河(福島県)から北はまったく価値のない土地、という東北侮蔑の言葉である。しかし、宮城県以外ではこの言葉にあまりこだわっていないようである。
ところが宮城の近代を語るとき、しばしばこの言葉が使われる。
なぜ宮城だけなのか。そこに近代宮城の一つの位置があるように思える」
(「宮城県の百年」我孫子麟著:1999:山川出版社刊:2頁)
■ 白河の関というのは陸奥国との境目。
東山道から陸奥国にはいるときには白河の関を、東海道経由のときには勿来(なこそ)の関を通らねばならない。勿来は別名を菊田の関ともいう。
勿来の関は今のいわき市にあるが、白河の関については説が分かれている。
ひとつは白河市旗宿。こちらは1800年に白河城主・松平定信が石碑を建てている。
もうひとつはそこから数キロ離れた場所、白河市白坂の旧陸羽街道沿いの道で、そこには関の跡とされる古社がふたつあった。
福島県側のそれが玉津島神社(境神社)、栃木県側が住吉神社である。
これは二所関明神と呼ばれているものである。この二所関明神は、源頼朝が奥州合戦の際に立ち寄り、また「一遍聖絵」「一遍上人聖絵」などにも描かれている。
また芭蕉が奥の細道で先の旗宿のあとにわざわざ立ち寄ってもいるところなどから、城主に認定された公式なものではないにしろ、捨てがたい赴きのある跡地ではある。
勿来の関についても、今は海の底に沈んだという話もあった。
みちのくの白河の関こえ侍るによめりける
頼りあらばいかで都へ告げやらん
けふ白河の関は越えぬと
(平兼盛「拾遺集」)