春の土。
■ 桜が咲き始めた。
これからゆっくりと北上し、山あいにも薄桃色の色を置くのだろう。
私はNYの新聞社、その写真特集を眺めていた。クライシスについてである。
棺のようなものがあり、綺麗に穴が掘られている。それはいくつも並び、その間隔は一定である。
■「硫黄島」という本がある。1965:R.Fニューカム著:田中至訳(光人社NF文庫)
原題は「IWO JIMA」
昭和20年2月。タラワを落とした後の米軍が、日本本土をめざして中部太平洋を西進中、世田谷区にも満たない島をめぐって壮絶な戦いが繰り広げられた。
日本側2万人の将兵はほぼ戦死。アメリカ側は36日間かかってこの島を落としたが、日本軍を上まわる戦死、戦傷、戦線離脱を数えた。戦史に名を残す一大攻防戦である。
ニューカムはAP通信の記者。
本の表紙はローゼンソール撮影の、擂鉢山山頂に星条旗をかかげる海兵隊員たちの写真である。
そこにこんな記述があった。上陸用前の準備についてである。
「各師団はそれぞれ野線病院を持っていたが、さらに海軍も野戦病院を上陸させ、陸軍は第38野線病院を準備していた。そしてサイパン、グアム両島には5000のベットが硫黄島の負傷者のために用意された」
「揚陸する物資の量もさることながら、その種類も恐ろしく多様だった。鉛筆、血液、トイレット・ペーパー(上陸用舟艇最後部に積み、波がかからないよう防水布を被せておくことという注意書きがついてた)、マッチ、ガソリン、靴下、弾薬、木の十字架(戦死者の墓に使う)、飲料水(註:以下膨大なので略する)。第五師団だけで1億本の紙巻タバコとオハイオ州の大都市コロンバスが1ヶ月間で消費するだけの食料を準備した」(前掲:60頁)
「11月に入ると、もうこれらの物資の船積みが始まった。どの梱包にも標識が書き込まれ、重さを計られ、寸法をとり、決められた場所に積まれた」
「またこの段階で航空写真の上で、どこを墓地にするのかが決まっていた。この命令は墓穴の深さ、間隔まで指定している。たとえば、死体の中心線から中心線までは1メートル、一列に50体、列と列の間隔は1メートルといった具合だった。死体埋葬班は上陸第一日目に、ブルドーザーとともに揚陸し、深さ2メートルの穴を掘る。それから墓の盛土をする木型まで用意していた」(前掲:61頁)
■ 今、なんともいえない気分で上記を書き写した。
物資のことではない。
ほぼそれに近い光景が現実にはあって、回収すらままならない土地もある。