まぼろし 2.
■「THE WORKING POOR」という本があって、先日寝そべっては捲っていた。
「ニューヨーカー」に寄稿したりしている、ディビット・K・シプラーというジャーナリストが書いたものである。岩波書店。
この話題については様々な本が出ているのだが、どうも半オクターブくらい高いものが多く、最後まで読み通せなかった記憶がある。
■ ここで読者は、別のところにまとめてある「甘く苦い島」の文章部分を読みにいっていただきたい。億劫でしょうけれども。
部分的に再掲。緑坂 3558.
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■ 第一次大戦後、アメリカは好景気の波に乗る。JAZZエイジと呼ばれるそれである。
失業者は減ったものの所得の格差は広がり、全体の42パーセントの年収は1000ドルにも満たなかった。ブルッキンズ研究所の報告によれば、トップにいる1パーセントの更に10分の1が、底辺を形成する42パーセントと同じ収入を得ていた。
当時のNYには貧民窟に暮らすひとびとが200万人いたとされている。
そして1929年の大恐慌がくる。
この恐慌については、別に何度も書かなければならないものだろう。
30代大統領、クーリッジは得意の名言を吐く。
「人々がどんどん職場から放り出されると失業が生じる」
「この国はうまくいっていない」
市場経済主義者というのは、外から物を言うのが得意であった。
■ 一方、1930年代にはオクラホマで大量に難民が発生していた。
小作農は土地を奪われ、25万、30万人とカリフォルニアに流れこんでゆく。スタインベックの「The Grapes of Wrath」にはこの間の事情が克明に描かれている。
小作農の中には、第一次大戦に従軍した兵士たちも多かった。
彼らは「オーキー」と呼ばれたが、当時の白人小作農たちの生活を、ニューディール政策の下、農業安定局(FSA。1937年に再移民局より改名)に雇われた写真家たちは膨大な記録に残している。
FSA、ストライカーの総括の下、ウォーカー・エバンス、ドロシア・ラングなど、5人の写真家が雇われた。後に画家となる、ベン・シャーンなどの名もある。
アメリカ南西部の農民達の窮状調査。
この活動はニューディール政策の宣伝の意味が強かったのだが、写真史の世界では「アメリカン・ドキュメント」と呼ばれ、20世紀初頭、ルイス・ハインなどによって始まった社会的ドキュメンタリーの延長線上にあった。
FSAの活動は、第二次大戦最中まで続けられたが、のべのネガ枚数は20?27万枚に及ぶという。
それはドキュメントというにとどまらず、ある種アメリカのイコンになっていた。
最も有名なそれは、ドロシア・ラングの「MIGRANT MOTHER, NIPOMO,CALIFOLNIA,1936」であるかも知れない。
が、これは誰が撮ったものだろう。
金網に手をかけるひとりの少女の写真があって、彼女は笑っていたりもする。