夢ざめの水 2.
 
 
 
■ こんなことをして何になるんだろう。
 という思いを打ち消すように、デザインを施したりサイトを作ったりしている。
 いやいや、そんなことはないぞ。某かの意味はあるはずだ。
 同じようなことは吉行さんも書いていて、まとまった作品のいくつかは夜なべ仕事によって為されたものである。
「夕暮れまで」などは、のべ10年近くかかっていたのではなかろうか。
 当時も今も、文芸誌の原稿料は安い。
 
 
 
■ ある同世代のジャーナリストと酒を飲んでいて、彼がこんなことをいう。
「北澤さん、私は社で出世しようと思っているんですよ」
 私は、それはその通りだと頷いた。
 加えて、そう思っている以上、彼はある部分で信用が置けるだろうとも考えた。
 組織にいなければできないことというのはある。
 人間には誰しもポーズがある、と言ったのはとあるフランスの作家だったが、十重二重に重なっている薄皮のようなものを剥いでゆくと何が残るのか。
 残らないというオチもある訳だが、ひとはひとの言説そのものよりも、例えばその姿勢なり動機なりを何処かで重視する。
 これには功罪があって、動機はよかったんだけどねえ、ということにもなり易い訳だが、例えば西洋合理主義は背後に絶対的な神の存在があるから成り立っているという考え方もある。
 では儒教的なものは、というと、辺境の半島と海を隔てた島国で純化され特化してゆく。
 
 
 
■ 錯綜しながら何がいいたいかというと、オクターブ高い文章なりコンテンツというものは、おそらく一過性のものだろうということである。
 これからどうなる、という未来予測も、背後にある思想や世界観までを見据えないと、単に古本屋に山のように積まれているマーケティングの入門書にも似て、その興奮が醒めた後ではひっかかるものが乏しい。
 一方で安全な場所にいながら、片方で何か別のものを捜したいのはひとの常だが、やはり現実はそう甘いものでもなく、何処かで身を削ったり何かを喪ったりするものだろうという気はしている。
 旦那さん、趣味にもリスクがあるもんですぜ。
 と、戦後、悪所の朝顔の前に貼ってあったと坂口安吾が書いていたが、勿論嘘である。