そう旨くはゆかないよ。
 
 
 
■ 漱石の小さな作品に、小さな娘と会話するところがあった。
 
「どうして井戸の中には水があるの」
「地面の下に水が流れているからだよ」
「じゃあ、どうして地面は落っこちちゃわないの」
「うん、そう旨くはゆかないよ」
 
 原文はどうなっていたのか本来は確かめるべきなんだろうが、億劫なのでやめる。
 それにしても、「そう旨くはゆかないよ」という台詞には、なかなか味がある。
 ここら辺の、何処か投げやりな気配ってのは、そう悪くはない。
 深夜、ちびちび酒を嘗めながら、独りディスプレイを眺めている大人の貴方には、説明せんでもいいとおもう。
 
 
○昔坂 vol.4 93年4月
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■ この緑坂は3065でも使った。
 ま、いいんですけれども、何がいいたいかというと、昨今の、先へ先へと進もうとする新自由主義者ごっこの若い奴ってのは、暑苦しいなァということである。
 ここで全然関係ないが、青瓶を書き写してみる。これは97年くらいか。
 初出:読売新聞社 yominet.
 
     ネットワークの自由。
 
 
 
■ すこし大風呂敷を広げた題名だが、さておき。
 例のオウム事件の頃である。国家のなかに仮想的な国家をつくり、様々な各省庁を置いたことを評価する動きが一部知識人の間にあった。
 国家権力というものを相対化したという趣旨であろうか。
 全共闘とオウムとの相関関係を論じる書籍も出されていた。
 私は今まで、「オウム」という単語をほとんど使ってこなかった。
「某宗教団体」とか「新・新宗教」という言い方をしている。
 今回その固有名詞を使ってみたのは、現実から逃避する時代がそろそろ終わりつつある、という文学上での流れも生まれてきているように思うからだ。ただ、そのゆくえについてはまだ未知数であろう。サルトルの眼鏡なんかを思い出したりもする。
 さらに、事件から二年が経過し、破防法など社会的な影響についても一定部分で収まってきたように認識しているからでもある。
 
 
 
■ 当時、オウムに対して部分的ではあったにせよ肯定的な見方をしていた知識人の一部は、ややあってサイバースペースでの自由ということを唱え始めた。インターネットにおける自由な情報発信と交信が、国家や民族、組織の壁を乗り越えるというある種の期待、場合によっては幻想である。
 そうした雑誌を手にとってみると、彼等がオウムからインターネットに乗り換えたのではないかというような印象を薄く持った。活字が小さく、難解な言い回しなので雑誌は買わなかった。
 一面においてはそうした特性は世の中を変革してゆくだろう。人々の意識も社会構造も変わることになる。
 ただ、そう旨くはゆかないよ。鵺のようにかたちをかえ皆飲み込むようにしてずるずると移行してゆくものだよ、という気が私にはする。