どうすればそれがかなうの 3.
 
 
 
■ 世の中が騒がしいときに、それについて語ることは簡単だと思っている。
 この状態を面白いと言ってしまうと、その次にくるものの重さが実は拡散してしまうのではないかという気もしている。
 
 
 
■ ネットの世界で、ある種論客と呼ばれている人たちのサイトを覗くと、成程このように煽ってゆくのだなと感じることが多い。
 それらは過剰に良心的であったり、ワルぶっていたり、あるいは世を憂いていたりもする。つまり言葉が半オクターブ程高い訳だが、この高さは、満員の新幹線の自由席で、ノートPCを取り出してメールを打っている30代の男の横顔にも似ていた。
 
 
 
■ そのことで思い出すのが、吉行さんの「街の底で」という小説である。
 週刊誌に連載されたいた、いわゆる中間小説というものだから、無駄な部分が多く、風俗にも流れ、世評はそれほど高くもない。
 主人公の文案屋(コピーライター)は、半ば街を放浪するかのように、女のところに入り浸り、ムゴーイ目に会い、そこから逃れるように路地裏をほっつき歩く。
 ただその視線は当時の大学卒、つまりは相対的に少数の側にいる者の、例外としての立場である。半分余所者。
 市民社会とそうでないもの、という二極構造がはっきりしていた頃の作品であるから、今の時代にそのまま通じるものでもない。
 文庫版解説のところに、確か奥野さんだったと思うが、この作品には60年安保のアの字も出てこない。それでいて、安保以後の背骨が折れたような知識人の心情をこれほど滲ませている作品も少ない、という趣旨のことを書かれていた。
 石坂洋二郎原作の日活文芸路線でも、例えば裕次郎が国会へデモにゆくシーンがあって、ほぼあらゆる作品に安保が登場する頃合である。