花影。
 
 
 
 昔、こういう恋文を書いたことがある。
■ 女性を美化できる歳ではなくなった。女性は女性として見ることができる。惚れているとはいえ、今そこにいるのは、随分素直な処もあるが、結局は我の硬い、未成熟のままに年をとったひとりの若い女性である。この先どう変わるのか分からないが、今の処、それ以上でもなければ、以下でもないと思っている。
 背後にある苦い思いや、醒めた視線に気付くことなく、男を紋切型で捉え、また紋切を返してくる。それはこの先も続くものとおもわれた。
 
 
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■ 坂道はゆるやかに上って、小学校の正門に突当たると、その堀に沿って左右に分れる。あるいは松崎が二度と通ることのないかもしれない道である。心に悩みを抱いて、この坂を上下した日々の思い出が群がり起こった。
 
 「吉野へ行ったってことは、行かなかったよりいいわ」
 と、葉子は言ったことがある。自分を忘れることはあっても、吉野は忘れないだろう。
 二人で吉野に籠もることはできなかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合わせてはいなかった。花の下で見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。
 日は高く、風は暖かく、地上に花の影が重なって、揺れていた。
 もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。
(大岡昇平「花影」新潮社)
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■ この手紙が届く頃には、桜はもうあらかた散ってしまっていて、貧相な汚れた花弁しか残ってはいない。
 午後から薄い雲が出て、足元が冷たくなった。
 西の空に、次第に色を無くしてゆく雲を見送るようなさびしさである。
 
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■ 大岡氏の文章はとても美しかった。
 葉子というのは昭和三十年代の銀座の女給で、松崎というのは大学の助教授である。
 松崎には家庭がある。
 いくつかの恋に似たものをくり返しながら、葉子は次第に歳をとり、しまいに一人の部屋で、自らの命を絶ってゆく。
 この時期になるとこの作品を読み返すことが多い。
 次第に容色の衰えてゆく葉子の姿を、大岡氏は、ぞっとするような冷静さをもって描写していた。
 太股の肉が落ちてゆくこと。歩き方が変わってくるということ。
 かかわる男達のずるさについても、それは同様である。
 
 
○昔坂 vol 13
93年4月