そこにいるだけのあいだ。
 
 
 
■ 仕事場の出窓から眺めると、屋上に日本庭園が広がっている。
 個人所有のもので、もちろん他のひとは入ることはできない。
 時々職人が、手入れをしていていた。
 私は寝癖を立てたままそれを見下ろしている。
 こんなところにセンサーが、と思うようなこともあったが、さすがにエレベータの中にはついていない。
 
 
 
■ 急速に再開発が進められているこの地域は、セントラルパークの左右に並ぶ通りをただミニチュアにしたようなものである。
 休日には地下鉄で通ってきた奥様たちが散歩に励む。
 古くからの骨董品屋がひとつふたつ。立原正秋さんの小説に出てきたような覚えもあるが、全体としてはアメリカのある文化を模しているのだと思われた。
 下に遅くまでやっているスーパーがあって、その上は独身OL用のワンルームになっている。何時までも埋まらないところをみると、設定が高すぎるのかも知れない。
 いくつか家具屋があって、県外ナンバーの若夫婦が買い物にきている。小物類はいいとして、それ以外の大物は、材質とデザイン・価格のバランスが取れていないかのようにも思われた。
 
 
 
■ 新しい層のようなものが生まれていると一部では言われる。
 東京の軸足が変わった。ということなのだが、私はその中に片足を突っ込んでいる。
 突っ込みながら眺めてもいる。
 苦々しいとも馬鹿らしいとも思うのだが、一方で表現というのは時代とともにあるという気分も濃い。
 表現も個人も、一定の制約の中にあるのが現実だが、自分の根幹に関わることをないがしろにしたり、されたりした場合にはやむを得ず対処することにもなってゆく。
 現実のやり取りと結末は、そう格好のいいものではないけれども、ただ後ろに下がるというだけでは、何ひとつ表現などはできないのだと考えている。