ドリームランド 2.
 
 
 
■ 漠然とした予感なのだが、今、ある種経済的な茶番のように起きていることは、私にはオウム以後、この国が至ったひとつの段階ではないかという気がしている。
 ある要素が拡散し、違う側面から社会の表面に滲んできたと言ってもいい。
 新しい玩具を与えられた子供が、これでこんなこともできると喜ぶ。
 流れるように自説を語り、技術が万能であるかのように錯覚しているのだが、ネットあるいは特定の経済原則からしか社会や人間を眺めることができない。
 空想的な技術万能主義とは、終末論の裏返しでしかないだろう。
 だが、技術というのは基本的に万人に開かれたものであって、特定の個人でなくても誰かが行うことは可能である。いずれそのアイディアは、保守的といわれている大人たちが実装してゆく。これが資本主義の鉄則だからである。
 
 
 
■ メディア論というのは、つまるところ世界をどう眺めているかという視座の問題である。メディアだけが単独に存在する訳ではなく、その国の経済的な側面や文化・歴史などに大きく規定されている訳だが、分かりやすい例を挙げれば、IT革命と呼ばれているものの成果は、グローバリズムの道具にもなればそれに相対する動きに使われることもあって、その意味では等価である。つまり、インフラのひとつなのだ。
 
 
 
■ 説明するのは厄介なので止めるが「空白の10年」の後、もうひとつ駒が進む。
 能力はあっても正規の雇用になれない男や女たちが溢れ、経済の流動弁として機能して久しい。「フリーター漂流」という番組が国営放送であったけれども、その制作に関わった誰かも、おそらくは似たような立場だったのだろうと思われる。
 フリーターも個人資産あれこれのひとも、この時代には「市民」と呼ばれる。
 ネットの匿名性と平等はその差異を極限まで隠蔽してしまう。
 何時だったか私は、リストラをされた知人の家にいった。
 半年も掃除をしていない黒ずんだトイレの棚に、今は別居中だという家族の残した生理用品があった。PCを眺めると、娘さんのアカウントが残っている。高校生の息子と釣りにいった時の写真が何枚か壁に飾ってあった。
 このテーブルは、かつて家族が食事をしたところなのかと思うのだが、その上でUSBのケーブルを繋いだりして、インスタント・コーヒーのおかわりをした。