ドリームランド。
 
 
 
■「夜の魚」一部を書いているとき、地下鉄サリン事件というのはまだ起きていなかった。予兆のようなものはあって、これからは新興宗教、あるいは新・新宗教の時代が来るだろうと感じていた。「夜の魚」の中で、狐のような中国女に撃たれた主人公が匿われるのが、その団体が経営する病院である。
 
 高橋和巳に「邪宗門」という小説がある。戦前ある新興宗教が、結局は軍部や政府に弾圧されてゆく過程を描いたものである。モデルは大本教だと言われるが、今ではこの小説を知るひとも少ない。
 反体制、革命のある種シンボルであるとして、オウム真理教を心情的に擁護した知識人は多い。社会的な生命を絶たれたひとも数人はいた。
 彼らは自らの叶わぬ夢を新しい世代に仮託しただけであって、パレスチナに憧れたかつての闘士の発想と寸分違わないでいた。あるいは精神世界の中で遊ぶ。
 
 
 
■ カルトの定義は様々にあるが、私は根っこのところに極めて強い自己愛があるのではないかという気がしている。
 となると、ネットの世界に非常になじみやすい。
 多くのブログないしは日記のようなものは、自己愛の増殖と連鎖である。
 厳しい評価を避け、昼間とは別の人間になろうとする。
 自らの顔写真や、小物類などを撮影して載せる。
 ある特定の人物がいたとして、そこに憧れ、今にも手が届くのではないかと錯覚させることがネットの匿名性と平等であるのかも知れない。
 そこを逆手にとって商売に繋げてゆくやり方もあり、私は否定するものではないが、そこに集まる彼らは、何処かで搾取されていることを知らないでいる。かといって被害者であるとは限らない。
 私は最近の若者や三十代の男たちが、タバコの吸い方を知らないことに驚く。
 火の点いたものを振り回したり、持ったまま椅子やテーブルの傍に手を置く。
 これは何故なのかと考えると、他人に対する想像力が乏しいのである。
 これは自分にとっても他人にとっても毒なのだという自覚だろうか。
 煙草や酒は、毒であるから大人の嗜好品なのだ。
 もちろん、何かモノを書くということもである。