一般教養とデザイン。
■ 教養と偏差値が比例していると今も考えるひとは少ない。
ただ、リスクが少ないという意味で、古典的経営の立場にある方は判断の基準にもしている。
反面、いわゆる村(ソン)に棲むITの方々は、あまりそういうことを忖度しない。
気合と根性と、なんでもやりますの忠誠心だろうか。
あたかも携帯を数多く売ることがアイデンティティであるかのように、今も先を急ぐ。
■ 地下の駐車場に降りてゆくと、隣はひとつ前のポルシェである。
ジャガーのXJRが二台。適当にメルセデスで、マニアなA8もある。
暫く、パンプスのような911タルガが幌を開けたまま停まっていたのだが、最近変わってワゴンになった。
ほとんどエンジンをかけていないだろうというあれこれがあって、足にトヨタの小型車が並ぶ。外ナンバーはあまり洗車をしていない。
メルセデスのクーペはNAVIなどをつけず、革張りが冬は寒いので一枚をひいていた。
これは数少ないW124のツィンカムのものである。
監視カメラが点滅していて、その前を歩いた。
■ 結局、カルト的にならざるを得ないのだろうという気がしている。
人を呼ぶにも擬似的にドーピングをするにも。
頭はいいが軸になるものを持たない空洞が、仮想の中で何物かに仮託する。世の中を変えるとか、それによってコストがこれだけ減ったとか。
定型化できないものに意味付けをするのは代理店の仕事のひとつだが、それを誰もが行おうとしている。
何故そう廻っていなければならないのか。
その技術に移行する必然はあるのか。
つまり社会が本当にそれを求めているのかという視点が乏しい。
必然は彼の中にあって、それによって舞台の上に立ちたいのかも知れない。
片方の眼でそれを眺めていると、今世紀は宗教の時代だと誰かが言っていたことを思い出し、すこしばかりうんざりとする。
女占い師が流行る訳である。