かげろう 5.
■ もうひとつ再掲してみる。
やや仮名にしておく。94年4月、初稿。青瓶。
肥大した自意識。
■ パソコン通信をしていると、現実と虚構との区別が判然としなくなることがあって、困る。
これは先に某氏が小説のかたちで指摘していた。
今ここで起きていることは、某氏が描いた世界を思い切り俗っぽくしたものだとも、ある方向からは言える。
■ 読売文学賞を授賞した色川氏の「狂人日記」をぱらぱら読んでいる。
惜しみながら読んでいる訳ではないが、通読は躯に堪える。
島尾敏夫氏の「日の移ろい」などもそうだが、密度があり揺れていて、一度埋めながら先を捲らないと背後にあるものの影が視えてこない。
■ 彼の精神には何処か暗部があって、未だそれが自覚されていない。
自覚されてはいても、それを巧妙に避けている。
それをひょいと飛び越え、事象は違う言葉となって翻訳されてゆく。
誤読は彼の天性である。
都合の良いこと悪いこと、敏感に判断はしているのだが、相手次第だ。
てのひらを返したように、ふたつのものを同列に論じてゆくことが出来る。一定の才能があるのだ。
■ ふと思い付いて、いくつかのものを読み返してみたのだが、とりたてて生身の感情というのはなかった。
他人と密接に繋がろうとする、基盤となるべき感情が希薄である。
替わりに「全能感」とでもいうべき、膨らんでゆく自意識がある。
それが充足される場所と仲間を求めて、様々な方策をとってゆく。
暫くは背後に退くだろう。
■ 「肥大した自意識」とは何か、というと「空白」ということである。
すこし注意して読まれてゆくと分かるのだが、実態はどこにあるのかと次第に不思議にならないだろうか。
目立つのは「操作」である。
「操作」というのは主として「対人関係」に関してであるが、そういう視点から眺めると弟子の果たしている役割が滲んでくる。
切り離して考えても良いが、そうするとどちらをも見誤るかも知れない。今はもういない友人に対する態度にしても、計らずも最後に本音が出ていた。