無限都市、ニューヨーク。
 
 
 
■ 薄暖かい気もするが、それはセントラルヒーターのせいで、窓からは角のとれた冷気が入りこんでくる。
 昨日からずっと頭痛が続いていて、錠剤の薬を何度かかじった。
 今、「MAXIMUM CITY.THE BIOGRAPHY OF NEW YORK」という本が手元にある。
 マイケル・パイ著。安岡 真 訳。文藝春秋社刊。
 そのカバーのモノクロ写真は、組み立てている最中の摩天楼の鉄骨の上に男たちが並び、シルエットとなっているものである。エンパイアかクライスラーか。
 いずれにせよ大恐慌の直前、男たちが安全帽の代わりにハンチングを被っていた時代である。背後には、中低層のビルの群れが低く広がる。
 元になっている写真を、どこかで見た覚えがあると書棚を捜したが見つからなかった。
 
 
 
■ 写真には鎮静の効果がある、と書いたのは確かスーザン・ソンタグだった。
 彼女の論と用語は難解で、何度か読み返してもまっすぐに胸には落ちてはこない。断片に光るものがあって、それだけは覚えている。
「写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる。
(略)朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである」
(「写真論」スーザン・ソンタグ:近藤耕人 訳:昌文社:23頁)
 つまり「写真は全て死を連想させるものである」からだが、ひとはそのことをなかなか意識しようとはしない。
 ソンタグより後年、ロラン・バルトは「明るい部屋」の中で、母を題材としながら独特の甘美ともいえる文体でその立証を試みた。
 
 
 
■ 今日は風が強かったが、夕方から降り始めた。
 仕事場の窓ガラスに水滴がたまっている。
 向かいに広がる庭園には、数本の満開の桜が水銀灯に照らされ、その手前には影になった大きな銀杏の樹がある。
 縦に落ちる水の音。
 私はといえば、自分が撮った写真について、漠然と考えている。
 仮にNYのものだったとしよう。始めはその全てを公開していなかった。
 広告に転用するという要請もあるが、ポジからの選択の際に自然に編集、省いてしまうのだ。ある種自主規制にも似た、分かりやすさとテーマを意識していたのかも知れない。
 ブレッソンや木村伊兵衛は、何枚も撮ったものの中からこれだという一枚を選んだという。写真の姿勢としてその対極にあったと言われる土門拳も、膨大なフィルムを消費した。だがそれは、写真が絵画に対してその芸術性をいささか背伸びして主張しなければならない時代の要請ではなかったかという気もする。
 写真が芸術か、という問いかけが今日妥当かどうか。
 問いかけるまでもなく、写真は万人に開かれてもいるだろう。それはその他の芸術も同じだ。
 いわゆる「グラウンド・ゼロ」以降、私はNYにゆく機会があった。
 ゆくことが可能だったという意味でである。
 仕事絡みでもそうでなくても、ゆくだけならばただの移動だろう。何故かはわからないが私はその機会を見送っていた。
 今も、まだそうではないと感じている部分がある。