浮動クラス。
 
 
 
■ 日曜の夜、ひとり車を走らせて所用から戻った。
 交差点で停まると、空が狭くなっている。何時の間にかここに高層マンションが建つのだ。
 多摩ナンバーのランチア・ワゴンが目の前にいた。窓から出ている腕にはブルガリの時計がはめてあり、そこまでやるのかと少し白けた。その紳士は、一足六万はする靴を履いていることだろう。日系おとなのおふ。連れがよろこぶ露天風呂。
 
 
 
■ 青瓶のところに甘木君が、階級について考えることが多いと書いていた。
 全くその通りで、麻布にあるスタジオの前にはメルセデスのSLKの大きなものが停まっていて、その横で男が弁当を食べていた。夜の八時過ぎであるから、彼の夕食なのだろう。
 それにしても、最近車の名前はどうでもいい。とりわけメルセデスはだ。
 かつて、世の中がまだここまで進む以前、といってもほんの数年前だが、私は「夜の魚」の三部に階級のことを書いた。階級と言えば、階層というよりも更にえげつない響きがある。
 いわゆる戦後の民主主義社会を支えてきた中産階級が次第に崩壊し、浮動的な二極分化が急速に進んできている。
 つい昨日までWeb制作やサーバー屋だった会社が社会の表舞台で一時は踊り、その代表者はNYスタイルのブランド物を身につけ、有名人が集まるというスポーツ・ジムに通う。そのすぐ隣のスーパーに、私は時々酒を買いにゆく。
 いくらでも取り替えの効く周囲の信奉者たちは、あたかも100円で本を売るチェーン店の店員のように、暇さえあれば気合いを入れていた。
 それは擬似体育会系か宗教系であって、彼らは潜在的に洗脳を望んでいる。
 見方を変えれば、文化大革命の際の上海のようでもあった。