文化銀座。
 
 
 
■ 随分と前、島にでかけたことがある。
 そこは周辺と比べ、文化的程度が高いと自称される土地で、確かに土着の薪能や太鼓など、夏になると沢山のイベントが行われていた。私はそのときはカメラを持たず、半ばオブザーバーのような形で出入りした。
 芸術家村のような一団に会ったこともある。
 彼らの多くは美術関係の学校出身で、配偶者なのか、環境問題に詳しい低血圧の巫女のような女性を連れていた。潮風に吹かれ、見事に錆びたホンダに乗っていた。
 廃屋のような一軒家を借りる。
 当時、確か一年で五万円程度ではなかったかという記憶がある。
 電気はきているの、と聞いたが、電信柱はある、という返事しか覚えていない。
 実際はもう少し高いのだろうとも思われる。
 
 
 
■ 彼らが一様に言うには、ここから文化を発信するのだということであった。
 どこそこから世界へ。
 というのがある種のスローガンでもあり、我々はアジアやヨーロッパに眼を向けると声を揃えた。確かにそれは、一定の時期成功していたかのようでもある。
 ただつまり聴いていると、京都の流れもあり、シルクロードの接点でもあり、要は暖流と寒流の適当な位置にある地勢的な条件とそれに基づく歴史を根拠にしている。
 地方紙の記者は、木戸御免で何処にでも入ってゆく。
 同行のアナウンサーは、裏返った声でおばあちゃんと呼びかけていた。
 
 
 
■ 夏になると、あちこちでイベントが行われる。
 JAZZであったりレゲエであったり、最近はヒップ・ホップであったりもする。
 町ぐるみでそれを取り上げるのは、次の選挙に有利なときだけだが、多くは中央から芸人を呼んでくる。中央とは、大抵は東京であるけれども、それが逆輸入されてゆく。
 これは明治以後の近代化の流れでもあって、いたしかたのないものでもあろうか。
 彼らは今どうしているかというと、元々地元に生まれたひとだけが残っている。
 あの時の記者も、女性アナウンサーも、あるいは髪を伸ばして自然を語っていた芸術家の方々も、今その町には住んではいない。通ってもいない。
 文化を語りつくすと、違うところにいってしまったかのようである。
 ただ私が思うのは、あのときの海岸で、流された巫女のような顔をしていた眼の細い女性の一群は、今どこにいるのだろうかということであった。