長い旅を続けていると、何処なのかを忘れる。
     夢も古びてくる。
 
 
 
■ ご存知、青瓶のキャッチである。
 もともと、これは緑坂として作った。
 車を運転していて、小雨である。
 信号で停まっていると、前にボルボのP1800がいて、そのテールが赤かった。
 私は助手席から古いキャノンのMFを取り出して、一枚を撮っている。
 フィルムはネガを詰めていた。
 
 
 
■ 緑坂は、次第に写真とデザイン、それにコピーを融合したものとして推移してゆく。
 高性能のフィルムスキャナがない当時、これはA4サイズのPDFとして作品化された。
 PDFも、当時はフォントの埋め込みができず、やむを得ずMSなどを使ったりしていた。
 いくつかのものは、商用利用される。シリーズで連作も作った。
 もう一度見たいという声もあるのだが、私のクレジット部分が今とは違っているので、再作成をしなければならず、その余裕がまだない。
 それでもいいではないか、という気持もあるのだけれども。
 
 
 
■ 年齢とともに作風はかわる。少なくとも表向きは。
 ネットというインフラが、多くのひとのものになってきた、という社会的な背景も大きい。ネットは、既にしてライフラインのひとつになってしまっている。
 情報格差という言葉が、前ほど言われなくなってきたのは、格差は単に情報だけではない時代に入ってしまったから、という指摘も可能だろうか。
 大きな声では言えないが、明白な階層社会になって久しい。
 生活も、そこから生まれる文化もである。

 使う道具が変わったとしても、それを創る人間はひとりである。
 文章も写真もデザインも、色濃くその個性が滲み出ているもので、その個性とは背後にある社会との関わり方や存在に、基盤では規定されている。
 私は、煙草を吸いすぎた後のような、ざらついた気分になることが時々ある。
 薄い闇のようなものが、緩やかに広がって、そこでは皆考えることをやめてしまう。
 次にみる夢はなんなのか。
 深夜、北や南に向かう高速の上で、行き先が分かっているのにその向こう側を考える。