「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.98

 
 
 
■ 葉子をみた。
 裸足で走っている。コートの裾が翻って、白い肌に綿のロープが念入りに巻き付いている。縄の下は裸だった。
 炎の中を突っ切った。熱くはない。
 ポルシェのドアに前輪をぶつけた。
 挟まれた北沢がよろめく。
 そのまま左に逸れ、コンテナの影まで加速した。
 追い付いた葉子を拾う。
 W1Sの小さなシートに、縄を食い込ませた葉子がまたがった。倉庫の裏側、B突堤が見える広い船着き場を加速してゆく。
 前が塞がった。
 後ろにコンテナを積んだ大型のトレーラーが、動く壁となってゆっくりバックしてくる。仲間がいたのだ。
 赤く塗られたコンテナには、「公洋貿易C&C」とある。
 いつだったか晃子が言っていた。
 毛沢東思想はいくつもの形をとって日本に残った。あからさまな例が、親中共派系の過激派集団だったが、重信率いるJRAに関しては、発足当時の、「連合赤軍」とは明らかな断層があると言われている。親中共系の団体のいくつかは合法的な会社を作った。今となってはそのほとんどがただ利潤を追うだけのものになっている。税関の傍にあったこの会社も、いくつかの企業の窓口になって莫大な利鞘を稼いでいるのだろう。
 
 大きく車体を傾け、私は逃げ道を捜した。浅いバンク角にキャプトン・マフラーが火花を散らした。
 北沢のポルシェが近づいてくる。右肩が熱を持っている。

「夜の魚」一部 vol.97

 
    二五 縄目
 
 
 
■ 銃はトカレフではなかった。
 艶消しの塗装で、サブノート型パソコンのような色をしている。
「そう、あんなもの自分では使わないんですよ。これはグロックという銃です」
「麻薬の密売ってのは儲かるんだな」
「ええ、人並みにね」
 この男が新人民軍の窓口であるとはとても思えなかった。
 淡い色合いの軽そうな上着を着ている。カシミアだろう。北沢は注意深く、開けられたドアの後ろに立っている。ロブの靴だ。
「革命の手助けをしているつもりなのか」
「ふん、もうじき世紀末ですよ。田舎の革命なんてどうでもいいでしょう」
「JRAはどうした」
「ええ、重信さんとは何度かお会いしました。日本赤軍の名前は便利でしてね、あちこちのマフィアも一目置いてくれるんですよ」
「NPA、スパロー・ユニットは仲間じゃないのか」
「彼らはテロリズムだけの職人です。なんでもそうでしょう、手段それ自体が目的になってゆきます。私は彼らの技術を買っているだけでね、仲間だと思っている訳ではない。この仕事には金を出す日本の閣僚もいるんですよ」
「そのデーターが入っていると」
「そう、だから漏れると困るんです」
 
 北沢は退屈そうな表情で比較的長く話している。NPAもJRAも、北沢には直接の関係がない。彼にとっては、利用できるただの取引相手であり、出入りの業者のようなものなのだ。
 閣僚というのは何のことだろう。だとすればフロッピーの回収だけで済む筈がない。北沢は確実に私たちを殺す気でいる。
 私は葉子をみた。口を聞かず、車の横に立っていた。死んだ魚のような顔色をしている。薬を使われたのだろう。
 
「随分仕込んだもんですね。以前は後ろも使えたのに」
 そこで頭が白くなった。
 ジャケットからビール瓶を取り出した。貼ってあるライターに火をつける。
 ポルシェのドアにむかって放り投げた。
 銃声がした。
 瓶は手前で割れ、ガソリンに引火した。
 炎が背丈ほどになる。北沢の顔が歪んでみえた。
 単車にまたがり、エンジンをかける。
「走れ」
 私は叫んだ。
 ローで引っ張ると、短い銃声が頬の横を横切った。
 右肩にもそれは弾け、肉が削げたのがわかった。
 痛みはまだない。