「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.102

 
    二七 魚
 
 
 
■ 頭から入ったのか、よく覚えていない。
 尖った水が染み込んでくる。冬の海は案外明るい。
 すこし上のところに大きく開かれた葉子の脚がみえた。
 コートが脱げている。黒い部分とそうでないところとが奇麗だった。
 葉子は夜の魚のようにゆっくりと泳いでいる。
 左手でヘルメットを取った。
 葉子の胸で見事に交差している縄を掴んだ。
 皮ジャンの上に着た救命ジャケットの紐をひっぱり、空気を充填した。
 浮かんでゆく。水が白くなってゆく。
 顔を出した。
 息をする。
 葉子が傍にいた。
 口を開けている。
 空は黒い。細かな破片のようなものが降ってくる。
 雪だ。
 私と葉子は真冬の横浜港に浮かんでいた。
 冷えると思ったら雪になっている。
 振り返ると、C突堤のマーカーが見えた。
 岸壁は並んだ警察車両のライトで一杯だった。赤い筋が交差している。
 後ろから一本の光が近づいた。
 浮き輪が投げられ、私たちは引き揚げられた。
「水上警察です」
 と、奥山が言った。

「夜の魚」一部 vol.101

 
 
 
■ シフト・ダウンしながらブレーキを握った。
 後輪がロックして車体が振れた。
 メーターは八○から下がらない。
 丸い尻が眼の前にある。
 脇はコンクリのブロックだ。
「飛ぶのよ」
 葉子が耳もとで叫ぶ。
 アクセルを開いた。
 鈍いショックがあった。
 ポルシェのなだらかなテールに乗り上げた。
 そこで立ち上がり、ハンドルを手前に引いた。
 軽くなる。
 空だ。
 ベイ・ブリッジが低いところにみえた気がした。
 何台もの車のライトを浴びている。
 W1Sは大恐慌の時、エンパイア・ステートビルによじ登った愚かな猿のように吠えていた。
 落下した。