「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.66

 
    十六 造花
 
 
 
■ 友人から送られた文献のリストは、そう多いものではない。
 カーンバーグとかマスターソンとか、ついこの間と言っても良い位概念としては新しいものなのだそうだ。東京駅の傍の本屋で大抵は手に入る。
 宗教関係のところにすこし、それから角の棚にすこし、定価を眺めては領収書は出ないだろうと諦めた。
 夜になって八重洲の地下街で食事をし、それからボタンダウンのシャツを一枚買った。昨年のものらしいのだが半値になっている。近頃、腕にアームをしている。シャツがそのように造られている。階段のところに座り込んでいる袋を持った男達をちらりと眺め、外に出た。
 部屋に戻りヒーターのスイッチを入れ本を捲った。
 定義からしてよくわからない。
 
「突然裏返しになる」という記述があった。
「予定した路線にはすぐに乗るのだが、そこで喜んでいるとその下にある不安定なものが露呈されてくる」
「安定した対人関係が結びにくい」
「半分鬼であり、半分人間でもある」
「神経症と分裂病の境界に属する人格のありかた」
 
 なんのことやらわからない。
 私は、地下街の花屋で造花を一本買ってきた。背の高いグラスに差し、水を入れるべきかどうか迷った。水は入れず机の上に置いてみる。
 壁に反射した光の中で、すこしくすんだ赤色の薔薇は静かに息をしているようにみえる。だが造り物なのだ。指で触れると乾いた音がする。
 考えるのをやめてぼんやりしていた。小さなグラスに酒を垂らした。
 ウィスキーは生で飲む。
 その方が旨いからだ。嘗めていると水が欲しくなる。
 黙っているとチェイサーをよこさない店が多いが、それがもともとの作法なのだろうか。
 水の味も酒を左右する。私はフードのついたトレーナーを着ていた。
 足が冷たいが、靴下を履くのははばかられる。

「夜の魚」一部 vol.65

 
 
 
■ 途中までみた。
 眼の大きな女に質問を加えてゆく場面があった。瞳孔の開き方で、彼女が人間ではないことがわかる。秘書ならそれで、慰安用ならまたそれ、目的に応じたアンドロイドが造られてゆく。戦闘用のもいる。
 思いついて医局にいる友人に電話することにした。
「どうしたんだこんな時間に」
 という声を古い馴染みで騙し、必用な文献をファックスで送って貰うことにした。
「近頃、内部だってアクセス料とられるんだぜ」
「わかったよ、銀座の黒い薔薇でも奢る」
「なんだそれ」
「社交場だ」
「わかんねえな、外にいる人のいうことは」
 暫くするとその一部が送られてくる。専門用語はわからないが、「境界性人格障害」と題目にはある。
「後は明日だ」
 下手な文字が見えたところで紙が止まった。
 
 銀座の裏通りにゆくとタイル張りの低いビルがある。
「発明・形状記憶発毛」と書かれた看板の下に薔薇の種類があって、「ここは皆さんの社交場です。貴男の故郷の娘を呼んで話をしてください」と手書きで書かれている。
 セットが幾らだったろう。油で汚れた調理場のドアの横にガラスのケースがあり、中にはボール紙で作られた日本地図が貼られていた。そこに沢山の虫ピンが刺さっている。
 近づくと、出身県ごとに女の名前が区分してある。源氏名なのだが、ほんとうだろうかと疑う気分が起きる。ひらがなが多い。
 反面、まだ舗装されていない頃の中学校のグランドが思い出される。
 いつかは入ってみたいと思っていた。初恋を覚えている訳でもないのだが。