「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.68

 
 
 
■「きいてないでしょ」
 成程そうなのか、と胸の中で細い針が微かに動いた。
 
 昔寝たことのある女が平気な声で電話をしてくる。私は平気な顔で答えている。彼女は男が変わる度に夜中に電話をしてきた。半ば決まった心を確かめるかのように、いくつかの些細な不安を並べた。ひとの心に興味があった頃、私は距離を置いて相づちを打っていた。
「まあ、この辺にしておこうぜ。七味を入れ過ぎると食えなくなる」
「あなたのそういうところがキライだったのよ」
 
 私は七味になることを承知していた。反面、昔の女と話していることで、現在に刺激を加えていることも自覚している。必要な時はそれで良かったのだろう。どういう訳かそうした構造が透けるようにみえた。普段そうした感覚が商品とコピーのあいだに薄い距離を置き、今のところ広告主から新鮮だと思われている部分のあることを思い出した。
 電話に付き合っているのに疲れてくる。向こう岸の言い足りない勢いを押さえ、電話を切った。
 二分経つと電話が鳴る。葉子だった。
「ポケベル、鳴らないわ」
「ああ」

「夜の魚」一部 vol.67

 
 
 
■ 電話が鳴った。昔すこし遊んだ女からで、今、恵比須の坂道で飲んでいるのだという。
「ブルー・マルガリータを四杯」
 知らない酒だ。
「男かえたんじゃなかったのか」
「そうなの、切れ間ってところね」
 何年か前のイブの頃、どう時間を合わせるのかで揉めたことがある。
 パーティに出ようというのだが、私は仕事が詰まっていた。そのパーティで知り合った男と暫く付き合っていたようである。
 ホテルの部屋を借りて集まることが、十年程前から暫くのあいだ流行った。
 自室が狭いから、そうするのだろう。
 坂道の途中にあるホテルは、二階のツインを全てそうした部屋に変えた。
 飲んだり食事をしたりする訳である。充分宿泊できるだけの料金で、アール・デコ調の椅子に座っているのは豪華なような気もした。
 その後、電車に乗らなくても良い場合ではあるが。
 
「今、どんなひととつきあっているのよ」
「四杯じゃないだろう」
 随分酔っているようだ。知っている頃は髪を長くし、時々はモデルのような顔をしてピアノを弾いていた。才能だけでは入れない、名の知れた私立の音大を出ている。
 私はぼんやりと話を聞いていた。ビデオのスイッチを入れ、音を消して眺めている。画面はいつも雨が降っているように思えた。
「代々木のツリーが変わったな」