十八 渇く
■「松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき」
葉子がベットの上で低い声を出した。
「なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを」
どこかに記憶がある。埃を払うと鈍い金属版が覗ける。
「銀座で映画をやっててね、観たのよ」
「灰とダイヤモンドか」
「ワイダってひとが書いたのかとおもってたわ。本を読んだら難しくて最後まで読めなかった」
「でも、はじめのところだけは覚えたの」
アンジェイェフスキだったと思う。小説の扉に、ノルビックの書いた詩が引用されている。
「灰の底ふかく、燦然と輝くダイヤモンドの残らんことを」
私は、「自由」という言葉につまづいている。葉子が口にすると、何か意味があるかのように思えた。
「自由になりたいのか」
私は葉子に尋ねた。
「ずっと、そう思っていたような気もするけど」
空調の音が低くしている。
部屋は乾き、窓からは隣にあるビルの灯りがみえている。葉子が予約したのは、恵比須にある人工的な街のホテルだった。
駅から続く水平のエスカレーターがあり、それはいつも警告の声を流している。
少しだけ開いた土の中に痩せた樹木が埋まっていて、そこには小さな電球が無数に纏わりついている。
照明を浴びた建物の前で、若い男女が写真を撮っている。座り込んでいる若者もいる。
人工的な街の中にあるデパートで酒とグラスを買い、部屋に潜り込むことにしたのだ。
「でも、自由って何かしらね」
私は葉子が撃った中国女のことを考えていた。
火花はトカレフの銃口から短い間、白く出ていた。
「夜の魚」
「夜の魚」一部 vol.71
■ 土曜日になった。
私は地下鉄を乗り継ぎ、表参道に出た。
明るい通りからとって返し、ガラス張りの店を何軒か越した。注意深く眺めていると店の名前が随分変わっている。
いつだったかこの辺りで高いシャツを買ったことがある。
モデルをしていたと思われる眉毛の濃い男が胸元をはだけ、ツータックのパンツで説明をしてくれた。
金を払い、むかし雑誌でみたことがある、というと露骨に嫌な顔をした。
稚児が古くなると店に廻されるのだと聞いた。
古いと言っても二十代半ばでしかない。
坂をまっすぐ降ることはせず、左に曲がり青山墓地の手前の陸橋に向かった。
タクシーの後ろに見覚えのあるBMWが停まっている。
エンジンを切ってスモールを灯けている。
葉子は陸橋の橋桁にもたれていた。
下はキラー通りだ。黒い皮のコートを着て、短いブーツを履いている。
その下はスカートなのか、灰色のようにも思える。
私は脚を引きずっていることに気付いた。片方が硬直し、踵だけが擦り減るような気持がする。
「よお」
と挨拶すると、葉子が指をさした。
まだ低いところに赤と茶色の月があった。
大きくて斑な模様がはっきりとしている。
上の方が欠け、ビルの間から昇ってきている。
「この世の終わりみたいだね」
葉子がそんなことを言う。
横を向くとタワーが立っている。
一番上のところだけがみえなくて、晴れてはいるがガスが出ているのだとわかった。
空の上も風がないのだろう。