「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.82

 
 
 
■ 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。
 あのとき私は吉川と倉庫の階段に腰掛けていた。
 小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞いていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
 晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
 
 シャク、という言葉を今日はよく聞く。
 便利な言葉のような気もする。恨みがある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」
 晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。
 杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
 小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ後でね」

「夜の魚」一部 vol.81

 
 
 
■「すこし飲みましょうか」
 晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。
 バカラではなく、国産の最も硬質な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
 麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。
 手際よくコルクを抜き、白いワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
 小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
 女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単でもない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
 吉川が撃たれた夜のことだ。
 晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑戦的という訳でもないのよ」