「夜の魚」

「夜の魚」一部 vol.86

 
 
 
■ ロシア革命の時のテロリストは、逡巡しながら人を殺したのだという。
 詩人の魂とテロリズムが両立できた時代もあったのだ。
 ポーランドにあった工業的人種廃絶の強制収容所に、カポと呼ばれる囚人頭がいたことを私はふと思いだした。
 彼等は仲間を統制するために選ばれ、時には本当の看守よりも残忍な手腕で同じ国の人々を進んで殺していった。そうでなければ自分の身が危うくなったのだ。
 北沢がカポであると思っていた訳ではない。
 溶剤を使い、顔もわからなくする方法があることを何処かで聞いたことがある。残った骨は粉砕器にかけるとただの粉になるのだそうだ。そうした方法が実際に可能かどうか、私にはわからなかった。けれども、拉致されて国外に連れ去られればそれで事は済んでしまう。
 北沢はそういって脅す。
 日常的なもの言いになっているところが不気味だった。
 奴は生っ粋のサディストなのだろうか。どうでもいいことだ。
 恐らく葉子は拉致された。フロッピーには何が入っている。
 二杯目を注ごうとした時、晃子が遮った。
 座っている私の傍に立ち、腕を廻して頭を抱いた。
 私は柔らかいセーターの胸に顔を埋め、声を出さずに言葉を発した。
 誰が何を試そうというのだ。

「夜の魚」一部 vol.85

 
 
 
■「はじめまして。いつぞやは連れが大変失礼しました」
 北沢の声だ。
 テロリストと話したことは一度もない。
 声には知性が出ると、ある写真家が言っていたことを覚えている。
 北沢の声にはある程度の教養が滲んでいるかのようにも思える。
 錯覚だ。
 一度に酔いが醒めてゆく。
 カーテンの影から下を覗こうとした。
 通りの向こう側、僅かに離れたところにスモールを付けた車が一台停まっている。
「そう、車の中からなんですよ。あなたとは始めてですねえ。これからそこに泊まるんですか、いや、彼女はいい女ですよ」
 何を言っているのか、女のことだ。
「それで、何の用だ」
「いや別に、唯の挨拶ですよ。ああ、そうそう、葉子が大変お世話になったそうで、これから連れて帰りますから」
「なんだって」
「わたしの元に戻りたいというものですからね、今傍にいるんですよ」
 北沢の声は低い。ゆっくりと、そして深い。
 その深さの中に濁ったものが混ざっている。
「ところで、明日お時間ありますか。あなたの持っているフロッピーを持ってきてくださいよ。葉子の顔が薬で溶けてしまったのをみるのはあなたも嫌でしょう。場所はまた電話します」
 そこでプツリと電話が切れた。
 窓を開けベランダに出るとハイビームにした車が加速するのが見えた。
 奴はその中にいたのだ。
 恐らく葉子がさらわれた。
 藤沢の外れの実家には母親だけがいると葉子は言っていた。
 その番号は手元に無い。フロッピーだって。なんのことかわからない。
 私は椅子に座り、ウィスキーをグラスに注いだ。
 窓から風が入り、髪を乱した晃子が立っていた。